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東京地方裁判所 昭和40年(行ウ)121号 判決

原告 株式会社大分銀行

被告 中央労働委員会

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一申立

一、原告の求めた裁判

1  被告が、再審査申立人原告、再審査被申立人参加人間の中労委昭和三八年(不再)第二二号不当労働行為再審査申立事件について、昭和四〇年八月一八日付でなした命令は、これを取消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二、被告の求めた裁判

主文同旨。

第二主張

一、原告

(一)  請求の原因

1 原告銀行は、肩書地に本店を置き、主として大分県下に支店を置いて銀行業を営む株式会社であり、参加人組合(以下従組という。)は、原告銀行従業員の一部をもつて組織する労働組合である。

2 従組は、昭和三八年三月二二日大分県地方労働委員会に対し、原告銀行を被申立人とする不当労働行為救済の申立をなし、同委員会は同申立に基づき、同年八月五日付で原告銀行に対し、従組宛に「当行が貴組合の弱体化を意図し、支店長、次長等銀行の職制を利用して貴組合員に対し選挙干渉その他組合活動妨害の行為をなしたことは不当労働行為でありますので、深く陳謝の意を表すとともに今後再びかかる行為を繰り返さないことを大分県地方労働委員会の命令により誓約します。」との陳謝文を原告銀行本店および各支店に一箇月間掲示して従業員に周知せしめることならびにその履行状況を同委員会に報告することを命ずる旨の救済命令(以下初審命令という。)を発した。

3 原告銀行は、初審命令を不服として、被告委員会に対し、再審査申立をなしたが、被告委員会は、昭和四〇年八月一八日付をもつて別紙命令書のとおり同審査申立を棄却する旨の命令(以下再審査命令という。)を発し、同命令書の写は同年九月二〇日原告銀行に交付された。

4 しかし乍ら、再審命令は、労働組合法の解釈を誤り、かつ、重大な事実の誤認に基づいてなされた違法な行政処分であるから取消を免かれないものである。

(二)  被告が別紙命令書の理由中第一において認定した事実についての認否

1 第一項(当事者等)は全部認める。

2 (1)、第二項(平岡執行部成立までの労使関係)(1)中、研睦会等が会則をもつていなかつたことは争う。その余は認める。

(2)、同項(2)ないし(6)は認める。

(3)、同項(7)中、戸畑支店の役席者二名が同店の職場会議で陳謝したことは争う。その余は認める。

3 (1)、第三項(平岡執行部の成立と役席会)(1)中、組合役員改選期改正の理由が賃金要求期に当り不利であることにあつたことは争う。その余は認める。

(2)、同項(2)、(3)は認める。ただし、(3)の「黎明会発足についての御案内」は「……発会についての御案内」である。

(3)、同項(4)は争う。

(4)、同項(5)中、黎明会の会合回数は争う。その余は認める。

(5)、同項(6)は認める。

(6)、同項(7)は不知。

(7)、同項(8)は認める。

(8)、同項(9)は認める。

(9)、同項(10)中、杵築支店長代理三井孟が南明荘での会議に出席し、その後鴻城会に入会したことは認める。その余は争う。

(10)、同項(11)、(12)は認める。

4 (1)、第四項(平岡執行部の三八年賃上げ要求案とこれをめぐる代議員会の動き)(1)、(2)は認める。

(2)、同項(3)中、昭和三八年一月二〇日に各支部組合学校が開かれたことは認める。その余は争う。

(3)、同項(4)中、四月二四日本店で、預金課、貸付課合同の職場会議が開かれたこと、翌二五日本店非現業の職場会議がもたれたこと、大分支部が両日の状況を記載した大分支部ニユース号外を配布したこと、それが労務行員に配布されなかつたことはいずれも認める。その余は争う。

(4)、同項(5)中、五、〇〇〇円目標を破棄したことは争う。その余は認める。

(5)、同項(6)、(7)は認める。

5 (1)、第五項(平岡、渡辺会談)(1)は認める。

(2)、同項(2)中、二月八日夜阿部智次郎が渡辺彬の自宅を訪ねたことは認める。その余は争う。

(3)、同項(3)は争う。

(4)、同項(4)中、同月九日夜、平岡が中尾、山田と同席したことは認める。その余は争う。

(5)、同項(5)中、同月一二日午前一〇時頃、勤務中の阿部が人事課長、富士見支店長を通じて貸付課長代理小野喜克に呼び出されたことは争う。その余は認める。

6 (1)、第六項(「賃金の考え方」と、これをめぐる役席者の言動)(1)ないし(3)は認める。

(2)、同項(4)中、各役席会、職場で「賃金の考え方」の研究説明が一斉に行なわれ、このため職場に混乱が起きたことは争う。その余は認める。

(3)、同項(5)は争う。

(4)、同項(6)、(7)は認める。

(5)、同項(8)は争う。

(6)、同項(9)中、抗議文の発表が役席会の全部に及んだものであるか否かは不知。その余は認める。

(7)、同項(10)ないし(13)は争う。

7 (1)、第七項(第一五回代議員会と平岡執行部退陣動議)(1)は認める。

(2)、同項(2)中、中尾、上田らが平岡の自宅を訪ねたことは認める。その余は争う。

(3)、同項(3)、(4)は認める。

(4)、同項(5)中、中尾、帆足らが松村荘において平岡と会つたことは認めるが、その際、中尾が平岡に対し退陣を勧めたことは争う。

(5)、同項(6)は認める。

8 (1)、第八項(執行部信任投票をめぐる役席者の言動)(1)ないし(11)は争う。

(2)、同項(12)中、被告主張のような趣旨の中央選管の告示がなされたことは認める。その余は不知。

(3)、同項(13)ないし(26)は争う。

(4)、同項(27)は認める。

(5)、同項(28)中、被告主張のとおりの選挙結果が発表されたことは認める。その余は争う。

(6)、同項(28)は認める。

9 (1)、第九項(組合の分裂)(1)中、被告ら主張のように執行部と異なる運動が開始されたことは認める。その余は不知。

(2)、同項(2)中、被告ら主張のように、従組が分裂し、大分銀行労働組合が結成されたことは認める。その余は争う。

(3)、同項(4)中、新労から銀行に対し、給与体系変更に関する提案を求めて来たこと、四月二二日銀行が両組合に対して給与体系改訂についての提案を行なつたことは認める。その余は争う。

(三)  被告認定の誤りについての積極的主張

1 本件事案の本質

本件において、被告は原告銀行側に不当労働行為があつたと認定、判断しているが、本件事案は従組内における内部批判、主流・反主流の対立、代議員会における執行部退陣要求決議、組合員全員による不信任投票、執行部の居座り、組合分裂という従組の自己崩壊過程を、従組執行部において、さも原告銀行の手によるものであるかのようにいいなそうとしているに過ぎないものである。

わが国の労使関係は、一般的趨勢として、企業近代化にともない、終戦直後の血なまぐさい闘争に明け暮れた時代から昭和三〇年前後の不況合理化闘争時代を経て健全化の様相を呈して来ている。すなわち、企業の発展、繁栄が達成されない限り、労使双方にとつて生活の向上、社会福祉の増進、国家の繁栄が期待できないことへの認識が備わつてきたのである。原告銀行においても、経営近代化を目指し、そのための諸施策を計画し、実施に移して来たが、それにより従業員間に「銀行の発展は役員と従業員の努力によつてもたらされ、役員と従業員の幸福は銀行の発展によつてもたらされる」という企業意識が広まつた。

従組執行部は、このような組合員である従業員の意識の変化、企業意識の昂揚に目を覆い、原告銀行の施策には何か裏があるとか、エビでタイを釣るようなものであるとかいう態度で組合員に教宣し、執行部に対する反対意見は反組合的であるとか、経営のヒモ付であるとか言つて攻撃し、容赦なく叩いた。このような従業員意識との遊離および従組執行部のみが正しいとする態度が組合運動の基調をめぐる内部対立となり自己崩壊へと転落するに至つたのである。

2 銀行の近代化、生産性向上諸施策の展開

(1) 昭和三五年頃から産業界は貿易為替の自由化に備え、総力をあげて、経営の近代化、合理化に取り組んだ。金融界においても事情は異ならず、経営の体質改善を迫られていたが、銀行はさらに公社債投資信託に対する爆発的人気に見られる大衆の貯蓄形態の多様化および相互銀行、信用金庫等の中小金融機関の急成長に対処しなければならなかつた。なかでも、地方銀行は証券会社と中小金融機関の挾撃の影響を強く受け、苦境に立たされていた。

そのような状勢下において、原告銀行は業績不振を続けた。銀行の業績の指標はその保有する預金高に求められるが、原告銀行の全国地方銀行および九州地方銀行における預金順位は昭和二八年以来毎年低下し、また、大分県内金融機関における預金占有率も低下の傾向を示していた。

従つて大分県は、県勢振興計画の一環として、昭和三六年より大分、鶴崎地区臨海工業地帯の造成、すなわち大分市をはじめとする四市一〇町一村を対象とする大規模な地域開発に着手した。それにより、大分県経済の飛躍的な成長と拡大が見込まれたが、そのなかにおいて、原告銀行は地場銀行としての責務を果して行かなければならなかつた。そして、それが原告銀行の長年の劣勢を挽回する最後の機会といえるものであつた。

右のような事態に直面して、ひとり原告銀行経営者のみならず従業員の相当多くのものが等しく、反省と焦慮の念を抱き、業績の向上、生産性の向上を考慮せざるを得なかつた。原告銀行は、業績向上と社会的使命の遂行のため、経営の近代化、合理化諸施策を積極的に展開して行つた。

(2) 原告銀行は、体質改善の具体策として、すでに、昭和三二年秋頃から事務用機械の整備に着手し、その充実を図つて来たが、昭和三四年総合企画室を新設し、常務室直属としたのを手始めとして業務機構の整備充実に踏み出した。すなわち、昭和三五年に預金増強のため貯蓄推進課を、昭和三六年に行員の指導訓練のため研修課を、昭和三七年に審査業務強化のため審査第三課を新設して機構の拡充に努め、業務の拡大のため、昭和三五年に外国為替業務の、昭和三六年に各種新種預金の取扱を開始した。

さらに、従業員全員の総力を業績向上に結集するため、創立七〇周年に当る昭和三七年には、原告銀行の経営基本方針を明文化した。それが行是「銀行の発展を通じ社会の繁栄に貢献することを本来の使命とする。」であり、この基本方針に基づき、人事方針、業務方針等各部門管理方針が制定された。そのうち、人事方針は昭和三八年一月に発表されたが、その内容は、簡単にいえば従業員は銀行の最大の資産であり、銀行繁栄の重要な基盤であるので、「適正な教育訓練」を行ない(第一項)、「公正な考課」を行ない(第二項)、「公正な賃金水準を保ち、積極的な福利厚生の向上をはかり」(第三項)、「協力態勢を確立する」(第四項)ということである。昭和三七年一〇月から同年一二月にかけて原告銀行が行なつた第一銀行本店留学制度・業務研究制度・係長制度の実施、停年退職者表彰規則の制定実施、誕生日祝品贈呈、出勤簿の廃止などは、この人事方針の精神に副う施策であるが、右人事方針の発表後にも種々の人事施策を行ない経営の近代化が強められてきたものである。

係長制度については、もともと原告銀行の業務組織中に「係長を置くことがある」(業務組織第四条、第五条)、と規定されていたのであるが、これが置かれないまま、業務上の必要により、職場によつては係の主任を設けていた。しかし、便宜的なものであつたため、職制上主任としての責任、権限が不明瞭であつたばかりでなく、それに対応する職務上の手当が支給されていなかつた。ところで、組織の能率的運営のためには、組織の各階層に対し、それにふさわしい責任と権限を与えなくてはならないので、右規定に基づき昭和三七年一二月五日係長の職務、権限と職務手当(月額一、五〇〇円)を定めて係長制度を実施したものであるが、この制度の実施は、原告銀行において一方的になしたものではなく、当時効力のあつた労働協約の精神に基づいて労使による経営協議会を開いた上、従組の了承を得て行なつたものである。

(3) 原告銀行は、昭和三八年二月一三日、人事部ニユース一四三号で、「賃金の考え方」を発表した。この発表は前記人事方針に基づく教育訓練、人事考課、福利厚生などの一連の諸施策についての方針発表の一環としてなされたものである。

当時の原告銀行における賃金制度は、いわゆる年功序列型賃金体系であり、その賃金決定要素は、学歴、勤続年数、年令であり、なかでもはじめの二つに最重点がおかれており、企業貢献度は二義的、三義的なものであつた。原告銀行は、昭和三六年頃から、前記人事方針に謳われた公正な賃金についての検討をはじめ、従来の賃金制度の是正すべき点として、〈1〉生活保障に重点をおき、〈2〉労働の質と量に応じた賃金を配分することを考えた。その構想は、昭和三七年二月には概ね纒められていたが、さらに検討を重ね、昭和三八年一月、銀行の方針として発表し得る段階となつた。そこで、これと並行して検討してきた教育訓練、人事考課、福利厚生などの諸施策とともに発表したものである。

すなわち、行内報である行報旬刊一月一〇日号、一月一五日号、一月二五日号、二月一日号、二月五日号でもつて前記人事方針第一項および第二項について順次解説を加えるとともに、続いて二月一三日の人事部ニユース、二月一五日号の行報旬刊で人事方針第三項についての解説を加えた。人事方針第四項の「意思疎通と協力態勢」については、各項の解説の中において逐次触れてゆき、特別にこの項のみについての解説は行なわなかつた。また、「賃金の考え方」の発表を行報旬刊でなく、人事部ニユースで流したのは、賃金についての具体的数字の発表があるので、できるだけ他行に漏れるのを避ける当然の措置である。

右のように、「賃金の考え方」の発表は組合対策に出たものでは毛頭ない。使用者が研究検討を重ねたものを経営方針として発表することは何ら非難に値することではなく、むしろ経営者の責務である。

「賃金の考え方」の骨子は、「人事方針に則り、公正な賃金の支給をなすことであるが、公正な賃金とは、〈1〉生活保障をするものであり、かつ、〈2〉公正な職能的個別賃金でなくてはならない、今回は前者の生活保障の賃金に改めたい。」というものであり、その主たる内容は、結婚適令期の本俸引上げ、年令別最低保障による給与体系、給与格差の矛盾の解決およびメリツトについて公正化の四項目であつた。

(4) 人事方針のその後の展開として、原告銀行は昭和三九年二月二六日人事部ニユース八四号をもつて「賃金の考え方(続)」を発表した。これは前年発表した「賃金の考え方」の続編、すなわち、第二の骨子である職能的個別賃金を実施したいというものである。

さらに、同年四月一三日には、人材育成計画すなわち教育訓練の長期計画を人事部通達をもつて発表、実施し、次いで職務遂行能力の性質と程度によつて従業員を分類格付する職能分類制度を基礎とし、右人材育成計画を職能別教育訓練制度として包摂するほか、職能昇格昇進制度、職能給賃金制度、職能別人事考課制度を相互に有機的に関連づけて制度化した総合人事管理制度を導入実施した。

3 銀行の諸施策に対する従組の態度

(1) 前記のように、原告銀行の金融界における預金順位の低下は、経営者のみならず、相当多くの従業員に生産性向上への顧慮を促がした。従業員間、特に組合員間における生産性向上問題に対する動向は、原告銀行が昭和三五年および昭和三七年にそれぞれ実施した行員意見調査に深い関心のあることがあらわれており、将来の賃金資金源の獲得のためにも生産性の向上による業績の拡大が目下の急務であるとする考えが醸成されていた。

しかるに、従組執行部は生産性向上運動は合理化の一つのスローガンであるので反対するという態度をとつていた。そのため、「経営近代化、生産性向上と企業の繁栄は一体のものであり、企業の繁栄を通じて、従業員の幸福を求める。」という立場に立つ、いわゆる反主流派との対立を見るに至つた。この対立が本件で基調論争といわれているものである。

(2) 研修課が昭和三六年二月に設置される以前にも人事課が担当して研修が行なわれていたが、研修課設置後は組織的に行なわれることとなつた。

なお、研修課の新設は、前記昭和三五年の行員意見調査の結果にあらわれた、多くの行員の勉強や研修を必要とする意見ないし希望を参考にして行われたもので、行員に業務遂行に必要な知識・技術・心構えを習熟させ、その質的向上を計り、顧客に満足のいくサービスを提供することを目的としているものである。

従組は、研修課設置について反対しなかつた。しかしながら、昭和三七年九月一日発行の一九六二年度地銀連運動方針には、「企業の中では研修活動を活発にして、企業従属意識を植えつけ、自分たち労働者のもつている力さえ認識できず、生活の面では個人個人が勝手に快楽を追い、仕事の面では資本のいうままになるような労働者を作り上げることを狙つています」との記載があり、地銀連傘下の従組執行部としては従業員が積極的に研修に参加している姿に目を覆い、従業員の意識の変化を無視し、従来通りの運動を進めたことが窺われ、これが基調論争を発展させて分裂という事態に立ち至つた一因であるとみられる。

(3) また、係長制度は、原告銀行と従組との間で数回にわたり経営協議会を開き、双方意見一致の上、前記のように昭和三七年一二月五日から実施に移されたものである。ところが、従組内の決議機関である中央委員会で昭和三七年一一月二二日に可決され、銀行と合意に達した後に及んで、同年一二月一日付従組機関紙「新樹」に「係長制度に栄光あれ」と題し、「係長制度ができたら誰がなるんだろう」「また働かない人間がふえてしわよせがヒラ行員におしつけられると困る」「今のままでよいではないか、係長は責任ばかり重くなるんではないか、かえつて複雑すぎて非能率になりはしないか」云々の文言を掲げたのである。係長制度は当時の役席者不足ということが業務遂行上の隘路になつていたので、これの解決のため実施したのである。したがつて、従業員も銀行の新しい施策の一つとして大いに歓迎していたので、上記記事は組合員一般に反感を抱かせることになつた。かかる情宣は職場の組合員の微妙な気持を全く無視し、それから遊離したものの一つと言える。

(4) 「賃金の考え方」についても一般従業員は人事方針の解説の一環として素直にうけとり「魅力ある体系是正」「銀行を信頼しよう」と賛意を示し、従組執行部も、「魅力ある体系是正」「体系は年令別の最低を保障するものであり、その考え方はそのまま受け入れられるものである」と、賃金の考え方の内容については基本的に賛意を示した。

このように、従組は賛意を示す一方、これには「裏がある」とか「エビでタイを釣るようなもの」であるなどと組合員に教宣し、執行部に対する反対意見は反組合的であり、経営のヒモ付であると攻撃した。このため、賃金の考え方をめぐり、従組内部において基調論争が具体的なものとして活発化したものであり、この賃金の考え方をめぐる組合員大衆の受けとり方に逆行して組合運営をあえてしようとしたところに、執行部の指導が壁にぶつかつた所以があり、その指導能力の欠如の故に退陣要求の決議がなされるに至つたものと見られる。

4 従組の自己崩壊過程

(1) 昭和三七年春闘について

昭和三七年三月、従組は地銀連統一闘争の一環として統一要求額五、〇〇〇円の賃上げ要求を行なつた。要求交渉は難航し、四月一五日スト権が確立され、四月二六日、二七日の時限ストに引き続いて、さらに二八日は原告銀行の第一三七期株主総会の日であるに拘わらず、午前一〇時までの時限ストの指令が出されるという重大事態にまで突入した。

かくして、四月二七日にストの惹き超した重大事態を憂えた一部の組合員(本店、北九州、久大各支部)よりスト中止の要望書が執行部に提出された。このように組合員間に生じたスト批判の空気は従組執行部としても無視し得ず急転直下スト中止となつた。

このストに対する批判、意見は、既に述べたごとく、従組執行部が昭和三五年頃以降の従業員感情、昭和三七年に入つてからの銀行の積極的諸施策とその成果のすべてを看過して漫然たる争議指導を行なつたことから、心ある組合員らの声となつて出たものである。

しかも、右スト中止をめぐり、組合員間に種々波紋を生じたことが見受けられる。すなわち、ストの実施、収拾の段階で、従組顧問団が関与し、中尾、平岡、上田、岡本、児玉、山田らの従組元幹部が、執行部より上位にある存在として動いていたことは、若手組合員その他、従組執行部につながらない一般組合員からいたく不信を招いたであろうことは容易に察知することができる。また定見なく、ストをやらせ、ストを中止させる指導振りは、従組執行部のかなえの軽重を問わしめるに足りるものというべく、執行部の威信は地に墜ちてしまつたのである。

従組自体、役員任期に関する組合規約を改正し、昭和三七年八月に、急拠、執行部改選を行なつているが、これは当時の執行部がストライキ後のスト批判を中心とした組織問題の収拾に失敗し、退陣の決意を顧問団に打ちあけ、急拠次期役員対策に着手したのが直接の動機と見るのが妥当である。

(2) 代議員選挙に伴う内部対立

昭和三七年九月一三日頃行なわれた代議員選挙の際、執行部と職場組合員との間において従来にない対立関係が生じた。代議員選挙は各職場において推薦した候補者に対して行なわれるべきものであるにもかかわらず、執行部はいかなる意図からか、従来のやり方と職場の状況を無視して別途に代議員候補者を推薦し(この中には吉富昭吉、西山慶克ら前中執も含まれていた)、職場推薦の候補者に対立せしめたのである。結果は皮肉にも執行部推薦の候補者は悉く落選し、執行部に対する職場の反感のみを後に残した。

また、職場推薦の候補者後藤安弘につき執行部は同人が昭和三七年春闘のスト中止要望書署名者であつたことをとりあげて、組合機関紙、電光ニユースに公然と非難し、一種の選挙妨害を行なつた。これはいたく職場組合員らを刺激し、執行部は職場から詰問され遂に後藤の自宅へ陳謝に行かざるを得ない破目となつた。

右執行部はもちろん水島執行部であるが、前述した執行部改選後における次期代議員選挙に関するものであるから、次期平岡執行部メンバーとの緊密な連繋のもとになされたものであることは、明らかである。

(3) 役席会の再組織

昭和三七年頃大分市内の本支店の課店長代理有志の集まりで「研睦会」という会があつた。他の地区にもこれと略々同じ役席会があつた。研睦会は当初は会員相互の「研鑚」と「親睦」を計る趣旨でつくられたのであるけれども、昭和三七年頃はもつぱら「親睦」の会になつていた。

ところが、偶々同年の夏、研睦会会長の田崎享(庶務課長代理)が死亡し、その後任会長の問題が生じた際、当時原告銀行の研修課新設などの施策に刺激されて本店を中心とする全店的な勉強ムードの中で、役席者層が自己啓発の必要性を痛感していたために、会の従来からの運営の仕方が問題になつた。そこで新会長選出を機に発展的解消を遂げ、会則、名称を改め、昭和三七年一〇月五日「相互の研鑚」を主たる目的とする黎明会として新発足した。

黎明会への改編によつてその機運は全店的に拡まり、従来からあつた各地区の役席会もそれぞれ黎明会と略々同じ目的をもつ会に会則を改め、さらに会名を改めた。

(4) 第三回中央委員会における執行部と中央委員との対立

昭和三七年一二月一三日、本店において第三回中央委員会が開かれたが、同中央委員会において基調の相違が組合内で表面化しつつあることが明らかとなつた。すなわち、

〈1〉 昭和三七年年末臨給要求の反省については、年末臨給〇、一か月の枠拡大要求貫徹が「共闘の成果である」としたのは児玉中央委員(現在退職)一名で、他の者は「共闘の成果ではない、要求そのものが正しかつた」と云つている。

〈2〉 昭和三八年春闘賃上げ予備討議では「今春のようなやり方は無理だ」という慎重論が大勢を占め五、〇〇〇円はあくまで目標ということで執行部案を承認している。

〈3〉 執行部と本店代議員との間に不信感があることは悪いと平岡委員長も率直に認めている。

こうした状況の中で、三重分会の広川中央委員は「執行部の運動の基調に問題はないか、ベースを下げる必要はないか」と訴え、執行部の反省を促している。

このように第三回中央委員会は基調相違の崩芽ともいえるものである。執行部は右広川発言に対して「ひも付きだ」「御用的だ」という批判をしているが、かかる執行部の態度は多数の組合員を遊離させるもので、従組の自己崩壊の要因といえるものである。

(5) 支部ニユース発行の事情

昭和三八年一月より大分・別府・県南支部ニユース、同年三月より豊肥支部ニユースが発行されたが、発行の経緯は、従組執行部発行のニユースは真相を伝えないので、支部組合員に真相を知らせるためであつた。このように各支部が独立のニユースを発行するようになつたことは、組合員の執行部に対する不信のあらわれとも見るべきものであるが、執行部は、昭和三八年二月二六日の第四回中央委員会で「支部ニユースは支部組合員の意向を掴んでないのではないか」という発言をなすにとどまり、表面的には何ら処置をとらなかつた。執行部から見れば分派行動ともいいうる支部ニユースの発行をとりしまれない程、すでに能力が欠けていたのである。

(6) 第三回代議員会

第三回代議員会は、昭和三八年一月一二日、一三日の両日、湯布院町山水館において組合学校を兼ね、代議員に青婦人部委員を混えて行なわれた。賃上げ要求に関しては、昭和三七年一二月一三日の第三回中央委員会の「五、〇〇〇円目標、しかし五、〇〇〇円はあくまで努力目標」という一応の線を再確認したに止まり、具体的な要求額について今後の職場会議にかけて決定するということになつた。ところが執行部は組合機関紙「新樹」情宣七六号でもつて殆んど討論されることのなかつた前記事項を強引にも「春闘賃上げの具体的方向を確認」としてトツプ記事でとりあげたため、組合員に少なからざる不満と疑惑を与えた。

(7) 第四回代議員会

第四回代議員会は昭和三八年一月二九日に開かれた。同代議員会において、大多数の分会が昭和三八年度賃金引上げの要求額について二、五〇〇円から三、〇〇〇円という意見であることを表明し、三、〇〇〇円という大勢の確認をした。この代議員の意見は職場討議を経て同代議員会で発表されたものであるに拘わらず、従組執行部は、第四回代議員会が銀行の策動によつて行なわれたかの如き態度をとつているが、組合員の意識意向について観察と反省を怠り責任を銀行に転嫁せんとする文字通りのこじつけである。

代議員会で具体的な決定をなすに先だち、職場討議のなされることは一般の常識であり、また、従組運営上の慣行でもあつた。特に、第四回代議員会に先だつ職場討議については、執行部が第三回代議員会後、その名において、「どこの職場も役席を含めて「此の要求なら経営者が認めないのが間違いだ」と確信できるだけ充分討議」すべきことを要請していたのである。しかるに、このようにして行なわれた職場討議の結果が、執行部の意図するところと異つたからといつて、それを銀行のひも付きとなすようでは組合員一般の支持を失うことは当然といわなければならない。

第四回代議員会に対する職場討議として昭和三八年一月二四日本店預金貸付課合同の職場会議が開催され、翌二五日本店非現業職場会議がもたれ、要求額は二、五〇〇円から三、〇〇〇円迄という意見が会議を支配した。かかる意見は既に述べたように、当時の従業員感情と昭和三七年の春闘におけるストライキの反省によるものと見られる。

大分支部は支部ニユースでこれら職場会議の模様を全店に流した。本店所在地であり、従組本部のお膝元である大分支部の討議が各職場の討議に影響のあつた面もあろうが、大分支部の討議は、当時における大部分の従業員の考え方を忠実に反映していたものと見るのが正しい。すでに執行部の賃上げ五、〇〇〇円目標という教宣をうけいれがたい組合員全般の意向があつたことに外ならない。

(8) 滝元旅館会議

昭和三八年一月二〇日別府市鶴見園において別府・県南・大分三支部の合同組合学校が開かれた。平岡委員長は招待されて出席し委員長挨拶を行なつたが、当日の行事の関係から挨拶の途中で主催者(支部)から注意を促され、それに若干自尊心を傷つけられたものか、その帰途、喫茶店で阿部智次郎(当時別府支部富士見通分会代議員)に対し、執行部退陣の意思をもらした。

さらに、同年一月二九日に開かれた第四回代議員会で賃上げ要求額に関する討議が前記のとおり、「平均三、〇〇〇円以下」の大勢となつた状勢から、平岡は同年二月二日別府市滝元旅館に自己に好意を寄せる者を秘密裡に集め執行部退陣を討議した。

(9) 平岡・渡辺会談および滝元旅館における会合

昭和三八年二月九日阿部智次郎の自宅で、本件において平岡・渡辺会談と称せられるものが行なわれた。

この会談について、渡辺彬(当時研修課長代理)が阿部に平間との会談を頼んだというのは誤りである。すなわち会談の前夜、阿部が中津の名産の巻柿を手土産に渡辺の自宅を訪問していること、阿部は前項で述べた滝元旅館会議に出席しているが、この会議の出席者のうちには現在もなお従組の中心的人物となつているものが多く存するが、阿部はその一人であることなどを考えると、このような立場にある阿部が、渡辺に頼まれたということで平岡を退陣させるために平岡・渡辺会談をとりもつことのあり得よう筈がない。して見れば、この会談が渡辺の発案・推進によつてもたれたと見ることは全くの誤りといわなければならず、平岡・阿部の合作になつたものか、ないしは、阿部の独走によるものかのどちらかであるに違いない。いずれにせよ、渡辺の発案・推薦したものでないことだけは断定し得るのである。阿部に促されて出かけて行つた渡辺は、野上人事課長から叱責されたように軽率であつたことは責められても、同人の行動が銀行側の意図に基づくものでないことは極めて明瞭である。

また、当日平岡は滝元旅館で中尾与三郎(当時日田支店次長)、山田昌治(当時日田支店長代理)、岡本政雄(当時佐伯支店長代理)、広瀬健二(当時課長代理待遇で休職中の専従組合副委員長)ら元従組最高幹部らと会合している。このうち中尾以外の者は大分大学の同窓会で別府に来ていたが、これは、当日広瀬から求められて別府に出て来ていた中尾が、大分大学同窓会で別府に来ていた顧問団関係者を呼んだのである。かねての間柄からいつても、また大阪支店から日出支店に戻つて間のない中尾が、皆に会いたいと思つても不思議はない。ところが、この中尾の動きと渡辺の動きを平岡が結びつけて発言したので中尾は激昂した。そもそも平岡・渡辺会談を推薦し、その日時、場所をとりきめ指定したのは阿部であつて渡辺ではないのであるから、渡辺と中尾との間に脈絡のあり得よう筈がないのである。平岡は、この誤つた勘ぐりにより、年来の盟友を失つたのである。中尾に近い広瀬らがどのような感情を抱いたかも想像できる。

中尾、山田、岡本、広瀬らが組合に関する話をしている際に平岡に退いたらという意味合いの話がでたとしても、それは当時の組合情勢から考えて従組の組織問題と平岡の身を心配しての話であつたと見るべきである。

(10) 第四回中央委員会における基調相違論争

昭和三八年二月二六日大分市丸山荘で第四回中央委員会が開かれたが、いわゆる執行部派と反執行部派との基調論争に終始し何ら決議するところなく閉会した。

執行部ならびにこれに同調する一部の中央委員は「組合の中に基調の相違は根本的にはあり得ない。信頼関係は行動のつみ上げによつて作られる」という意見であつたが、本店を中心とする多数の中央委員は「執行部は職場の意見と遊離しているのではないか。企業を信頼しよう。賃金の考え方をタイとエビ、馬とニンジンでたとえるのはわれわれに対する侮辱だ」などの意見をもち、激しい論争が展開され感情的対立も最高潮に達した。

このようにして平岡執行部は事実上執行能力を全く失なつてしまつたものと見受けられる。

(11) 第五回代議員会前後の事情および分裂に至る経緯昭和三八年二月一四日、一五日の両日別府市不老泉およびあけぼの荘において第五回代議員会が開かれたが、執行部派と反執行部派の基調論争は執行部退陣要求という最悪事態にまで発展した。

同代議員会において高村大分支部長らから執行部退陣動議が提出されるに至つたが、その理由は、既述のように昭和三七年春闘にはじまり、平岡執行部成立直後の代議員選挙時における職場との対立、第三回中央委員会、第四回中央委員会と、時とともに深刻化して来た基調相違と、これに原因する執行部と職場のきびしい対立が抜き差しならぬものとなつたため、そのような深刻な事態を収拾することにあつた。

この代議員会前後に、かつて執行部にあつた組合の長老である上田学、中尾与三郎、山田昌治(いずれも顧問団会議のメンバー)が執行部派、反執行部派と話し合い調停工作を続けた。調停工作は結局は成功しなかつたが、この動きに対しても平岡は原告銀行の差し金と憶断している。

この執行部退陣要求動議は五五票対二九票をもつて可決された。執行部は、自分たちは全員の選挙(対立候補のない選挙)によつて出て来たものであるからと称し、全員の信任投票を提案強行し、同月二三日、六三四票対四五三票を以つて敗れたが、敢てこの結果を無視し、一般の要望にもかかわらず規約による代議員会、中央委員会も召集せず、常識を以つては到底理解しがたい居座りを策したのである。かくては組合の瓦解、分裂の最悪事態に立ち到るも当然である。

(12) 従組執行部の態度の本質

現在、従組の組合員数は原告銀行の従業員のわずか五パーセント弱にすぎず、従組の上部団体である地銀連に属する組合員は全国地方銀行従業員のわずか二パーセントにしかすぎない。このように減少した状態について、従組は執行方針、運営方針に誤まりはなくすべて経営者の攻撃の結果であるという態度をとつている。この態度の本質は従組執行部のみが正しく一般組合員は無知蒙昧であり、執行部を批判するものは常に経営者のヒモ付きであるとする極めて思い上つた考え方にあり、調整妥協とはおよそ逆に、切捨御免、分裂も辞さないという傾向をもつものであり、これが従組の致命的破局を招く要因となつたのである。

5 結語

以上述べて来つたところから要約していえることの一つは、平岡執行部が、従組内のあらゆる層の人々をみずから敵にまわしてしまつたということである。昭和三七年の代議員選挙に介入したことにより職場組合員、特に代議員らから反感を買つたこと、要望書署名者の一人後藤安弘に対し実質的選挙妨害をなすことにより、職場組合員、特に一連の要望書署名者の反感を買つたこと、役席者の自己啓発の要望からする役席会を理解せず、役席組合員らの反撥を買つたこと、青婦人部の運動方針に関連して同部幹部を叩き、反撥を買つたこと、従来の顧問団を意識して遠ざけたこと、特に中尾を渡辺と脈絡があるかのごとくいつて激昂させたこと、従組として既に了承した係長制度を皮肉つて、係長となる組合員を不快ならしめたこと、組合機関(中央委員会・代議員会)における反対意見を原告銀行のヒモ付きであるとして非難し、それら代議員を敵にまわしたこと、その他本件の事実の経過にあらわれて来ることは、すべて、右に通ずる性格のものばかりであり、かくて平岡執行部は急速に支持者を失い、また、反執行部活動を活発化せしめる結果となつたのである。その過程において、基調論争ということがいわれている。執行部派と反執行部派の間におけるやりとりの中で開かれたこの言葉は、いかにもホワイトカラーたる銀行従業員の論戦らしい感があるが、この一見、理性的行動と見える基調論争が、極めて強い情緒的行動として展開していつたところに特徴があり、それ故に、双方の争いが最後の限界までエスカレートして行つた所以があるといえよう。このような観点からすると、本件における執行部派、反執行部派の争いは、いかにも、情緒的行動につながる要因を多くもつている。背景にある研修ブーム、自己啓発ブームというべきものも、研修なり自己啓発を義務としてこれを考えるのではなくして、それに対する志向、それをみずから要請するムードが基調になつているのである。それに水をさすものは、情緒的行動としての反撥を蒙ること必定である。執行部派が相手方を攻撃するのに用いた「ヒモつき」とか「エビ・タイ」とかいう表現も、これは理性的批判では毛頭なく、感情的、情緒的な攻撃にほかならないから、相手方の心を傷つけること著しく、それが更に強い情緒的反撃を呼ぶこととなるのである。「賃金の考え方」についての見方に関しても同様である。これは、銀行の考え方であり、方針を示したものであるが、一方、当時における銀行のビジヨンを示したものに外ならない。しかしてビジヨンははなはだ情緒的なものである。このビジヨンが示されたとき、それが銀行従業員一般の要請に合致するものであつたが故に、俄然、賃金の考え方ブームが起つたのである。この動きは、情緒的行動として把握すれば容易に理解できるのである。しかも、当時、前年来の、一連の積極的銀行施策と思い合せたとき、ここに、銀行への信頼ムードが醸成され、執行部のエビ・タイ論に叩かれたのに反撥して、右のムードは情緒的行動として爆発して行つたのである。

第五回代議員会の退陣決議についても、金をごまかしたとか、形式的な手続違反があつたとかいうことよりも、組合員一般の意識に逆行し情緒的反撥を招いた結果によるものといつて誤りはない。それ以後における平岡執行部の態度は、すべてこれ、もつぱら反執行部派を刺戟し、また、一般組合員の感情的反撥を招いたのである。代議員会の決議を無視し、みずから提案した全員投票の結果を蹂躙したとき、事態は遂に行くところまで行き、分裂という不幸な結果を招いたのである。平岡は、この従組内において急速に昂進して行つた情緒的反執行部行動を見落していたのである。中尾、上田ら従組元幹部は、この点を感得したが故に、みずからが精魂を傾け、かつ愛したところの組織の崩壊を防止するため行動したものと見るのが正当である。

被告中労委は、平岡執行部の主張見解に副う判断をしたわけであるが、結局、前記情緒的行動としての動きを認識しなかつたが故に、事実の本質を見落し、重大な判断の過誤をおかしたものというほかはない。

(三)  不当労働行為阻却事由

本件において、非組合員たる二、三の支店長の言動に不当労働行為と誤解され易いものがあつたとしても、それは、極く小規模の支店、行員僅か十名から十数名の店舗での出来事であつて、店舗つゞきに社宅があり、日頃は家庭的、親密の度合の濃い間柄のためのものであつて、団結権破かい等の意図が窺われる節はない。そのような場合不当労働行為の成立は阻却されるというべきである。

二、被告および訴訟参加人

(一)  請求の原因に対する認否

1 請求原因第1ないし第3項は認める。ただし、再審命令書の写が原告銀行に交付された日は昭和四〇年九月一九日である。

2 同第4項は争う。

(二)  本件事実関係およびそれに対する判断

本件事実関係は別紙命令書理由らん第1(当委員会の認定した事実)記載のとおりであり、それに対する判断は同第2(当委員会の判断)記載のとおりである。

(三)  不当労働行為阻却事由の主張に対する認否

原告の主張は争う。

第三証拠〈省略〉

理由

第一、手続的経過

原告銀行が、肩書地に本店を置き、主として大分県下に支店を置いて銀行業を営む株式会社であり、従組が原告銀行従業員の一部をもつて組織する労働組合であること、従組が昭和三八年三月二二日大分県地方労働委員会に対し、原告銀行を被申立人とする不当労働行為救済の申立をなし、同委員会が同申立に基づき、原告銀行に対し、従組宛に「当行が貴組合の弱体化を意図し、支店長、次長等銀行の職制を利用して貴組合員に対し選挙干渉その他組合活動妨害の行為をなしたことは不当労働行為でありますので、深く陳謝の意を表すとともに今後再びかかる行為を繰り返さないことを大分県地方労働委員会の命令により誓約します」との陳謝文を原告銀行本店および各支店に掲示して従業員に周知せしめることならびにその履行状況を同委員会に報告することを命ずる旨の初審命令を発したこと、原告銀行が、初審命令を不服として、被告委員会に対し、再審査申立をしたが、被告委員会は昭和四〇年八月一八日付をもつて、同再審査申立を棄却する別紙命令書(写)のとおりの再審命令を発し、同命令書の写が遅くとも同年九月二〇日原告銀行に交付されたことは当事者間に争いがない。

第二、従組の分裂に至るまでの諸事情

(一)、従組の概略

1  従組の成立ち

従組が原告銀行従業員をもつて昭和二一年六月に結成され、各支店毎に分会を、九地区に支部を置き、全国地方銀行従業員組合連合会(以下地銀連という)および大分県労働組合評議会に加盟し、大分県地方労働委員会に本件救済申立をなした当時、その組合員数は約一、一〇〇名(従業員約一、三〇〇名)であつたことは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一号証、乙第一三六号証の各記載によれば、従組本部と大分支部は原告銀行本店に置かれ、本店には、大分支部に属する現業部と非現業部の二分会があることが認められる。

2  組合員の範囲

前掲甲第一号証、成立に争いのない同第八五号証、乙第三二九、第三七二号証の各記載に弁論の全趣旨を併せ考えると、原告銀行では、「従業員」とは行員、労務行員、集金員のいずれかの身分を有するものを指し、それ以外の者で原告銀行の業務に従事するものは、嘱託または臨時労務行員と呼ばれていること、「従業員」のなかで、二、三の例外を除き、行員資格を有するものが管理監督の職務を有する係長、課、店長代理、支店次長、出張所長、部課店長等の職位、すなわち「役付」に任命されているが、この地位または地位就任者を「役席」または「役席者」と通常称していたことが認められ、従組の組合規約第三条但書の規定により、「従業員」のうち、部長、部次長、課長、支店長、人事・秘書両課長代理が組合員の範囲から除かれていたことは当事者間に争いがない。

(二)、昭和三七年春闘から平岡執行部の成立まで

1  昭和三七年春闘と役席組合員からのスト中止要望書

昭和三七年四月、従組が、一人平均五、〇〇〇円の賃上げ要求を行ない、同月一五日スト権を確立し、同月二六日、二七日に時限ストを実施し、同月二八日(株主総会当日)にも時限ストを予定していたが、中止されたこと、それと前後して大分等三地区の役席組合員からスト中止要望書が従組に出されたこと、右争議は一人平均三、五〇〇円で解決したこと、右闘争中の同月二三日、原告銀行が各支店長宛に、営業時間中の組合活動については、中央執行委員と雖も厳禁する旨の通達をしたことは当事者間に争いがない。

前掲乙第三七二号証、成立に争いのない乙第五、第一一七、第一二一、第一四九ないし第一五一、第二七三、第三七六、第三七八、第三八九、第三九一、第三九九、第四〇一号証の各記載ならびに証人高村昭輝、野内七三郎、野上尚、中野与三郎の各証言および参加人代表者平岡重夫本人尋問の結果を綜合すれば、右闘争は従組(当時の執行委員長は水島勲)として初めて取組んだ金融共闘であること、前記二月二八日の時限ストは午前一〇時までの一時間一五分に亘る全店一斉ストの予定であつたが、これに先だち、同月二七日前示の中止要望書が出されるに及び、右ストは中止されるに至つたこと、右要望書は本店北九州、久大の各支部に属する役席組合員から出されたものであるが、その内容は、「今回の賃上げ要求闘争は憂うべき段階に突入したが、ストは銀行の業績向上に障害を与え、信用を失墜するものであるから慎重に行動すべきであり、そのような過激な非常手段には同調できない。現在原告銀行のおかれている諸般の情勢を考慮し冷静な判断の下に行動するよう願う。もしこれ以上過激な手段がとられるならば、我々としてはこれに追従し得ないこととなり、場合によつては独自の行動に移らざるをえないこともある。自主性と良識ある行動をとることを強く要望する。」という趣旨のものであり、北九州地区の要望書には「スト銀行の汚名」といつた言葉が使われていること、右スト権確立は組合大会において八七、六パーセントの賛成を得てなされたものであり、右要望書に対しては、一般組合員から、組合の統制を乱すものとの批判の声が上がり、それに署名した役席組合員の一部が職場会議で陳謝を求められるということもあつたこと、しかし、右要望書以外に、原告銀行から前記妥結額の回答が出ることを非公式ではあるが予め知りながらストに臨んだということで執行部に対する非難も出て、組合運営を難かしくしたことが認められ、他にこれを左右するに足りる証拠はない。

2  平岡執行部の成立

昭和三七年八月、従組は、従来役員改選期が二月一日であつたのを、八月一日に改め、新執行部を一〇月一日から発足させることとなつたが、当時の戸畑支店次長平岡重夫が従組元三役よりなる組合顧問団および執行部からの推薦により、中央執行委員長に立候補し、他の六名の執行委員立候補者とともに、同年八月三〇日信任投票に臨んだ結果、いずれも九〇パーセント以上の信任票を得て、第一九期執行部として発足することとなつたこと、もつとも、平岡委員長は病気により入院したため、発足後暫く(前掲乙第三九九号証によれば、同委員長が従組書記局に出局したのは同年一一月九日であることが認められる)、副委員長広瀬健二において委員長の職務を代行したことは当事者間に争いがない。

(三)、役席会と係長制度

1  役席会の新発足

(1) 原告銀行には、従来役席者の団体として、大分地区では研睦会、別府地区では七色会と称する会があり、親睦を旨として年一、二回会合を開くほか、慶弔金を贈ること等が行なわれていたこと、昭和三七年九月二一日開かれた研睦会の席上、同会を解散し、相互研鑚を目的とする会に改めることが提案されて容れられた結果、同年一〇月五日黎明会が発足し、会則が定められたこと、同会則第三条には「本部並びに本店営業部及び市内支店の役席者(支店長、支店長代理)を以て構成する」と定められ、非組合員である人事・秘書両課長代理を含め、本店だけで四〇数名、大分市内の各支店を合せ約六〇名が加入し千原奈良一が会長に、原敬および松本忠久の両名が副会長に選ばれたこと、同会は、その結成を「黎明会ニユース」で全店に通知したこと、同会の結成後、おおむね従組支部所在の各地区に同会と略々同じ会則をもつ役席会が続出し、それぞれ、鶴泉会、鴻城会等と称したことは当事者間に争いがない。

(2) また、同年一一月二日、黎明会会長千原奈良一が幹事となり、別府市田乃浦所在の南明荘に、各地区役席会の代表者ら約三〇名が集まり、黎明会副会長松本忠久が議長となり、役席会の運営について討議したこと(以下この会合を南明荘会議という)、佐伯支店次長堀端実、竹田支店次長安達泉久、鶴崎支店次長川原垣某、臼杵支店次長大谷謙二らから約二時間にわたり、「会の目的を、組合対策とすべきである」、「組合は自主性がない、地銀連を脱退すべきである」、「現在の執行部があるかぎり、銀行の業績発展はありえない」等の発言があつたが、結論としては、「会はあくまでも役席者相互の研鑚を目的とし、これをはずれた運営をしない」ということに決定されたこと、その会合には、人事部長神宮治が招待されて出席したが、役席者の会合に招待されたのは始めてであり、当日は出席しただけで発言はしていないこと、人事課長野上尚、同課長代理河越厳が右討議終了後出席し、夕食をともにしたことは当事者間に争いがない。

前掲乙第三八九号証により成立の認められる同第一五三号証、成立に争いのない同第二四六、第三二四号証の各記載によれば、黎明会の発足直後、組合員間で同会の性格について疑念がもたれたので、広瀬副委員長は、千原会長と会談し、同会長から、〈1〉同会は組合とは無関係であり、また銀行側からの干渉は全くなく、銀行との関係でも自主的に運営していく、〈2〉組合員である会員が組合に対し意思表示する場は組合機関であり、また機関決定には従う、〈3〉黎明会通信の配布は、今後は会員限りとする、〈4〉会員の資格は日常業務に携わつている者であるが、休職扱いになつている組合専従役席者についても申込みがあれば考える、との確答を得たことが認められる(広瀬、千原会談が行なわれ、同会と組合との関係について確認がなされたことおよびそのことを組合速報で組合員に周知させたことは当事者間に争いがない)。

(3) 前掲乙第一五三、第二四六、第三八九、第三九一号証、成立に争いのない同第三、第九五号証の各記載および証人岡本政雄の証言によれば、役席会の入会については、従来の研睦会などと異なり、役席者であつても組合専従者は資格がないものとされていたばかりでなく、佐伯支店長代理岡本政雄ほか三名の元執行委員長も入会を認められなかつたこと、また、杵築支店長代理三井孟は書記長経験者で、組合活動が長いということで、その所属地区の役席会である鴻城会に入会するについて、組合運動をやらないという一札を入れるよう要求されて、一時加入を思い止まつたこと、その後入会した(この点は当事者間に争いがない)が、入会後会合があつてもその通知を受けたことがなかつたことが認められ、これに反する証拠はない。

(4) 前掲乙第九五、第三七六号証の各記載によれば、南明荘会議の席上、従組の情宣が少し左に片寄つているから、役席会でこれに対抗して会報のようなものを配布しようという話もあつたことが認められる。しかし、その席上、役席会の目的とされた相互研鑚の方法、内容について具体的議論がなされたことおよび右目的のために人事部長、人事課長、同課長代理の三名が列席しなければならなかつた特別の理由があつたことを認めるに足りる証拠はない。

(5) また、黎明会を除くその余の殆んどの役席会において、その目的に添つた会合のもたれたことを認めるに足りる証拠はないが、前掲乙第三七八号証、成立に争いのない同第一八号証の各記載によれば、黎明会は近くの地区の役席会の会員をも誘い、テーマを定めて研究会をもつていたことが認められるとともに、発足後、後記従組の分裂までの約六ケ月間に一〇回会合を開いているのに比し、分裂後は約一一ケ月間に五回と減少していることが認められる。

なお、前掲乙第三七六号証、成立に争いのない同第三八八号証の各記載によれば、原告銀行では、支店長、課長には支店長会議、課長会議という特別の研鑚機関があり、訓練は新入行員から支店長までを対象として、それぞれ実施されており、管理者には管理者訓練が行なわれていたことが認められる。

2  係長制度の実施

(1) 原告銀行が昭和三七年一二月五日、新たに係長制度を実施したこと、その結果、従組の中央委員、代議員中の役席者が急増したほか、係長も役席会へ加入することとなつたので、役席会の会員数も著しく増加したことは当事者間に争いがなく、前掲乙第三、第一三六号証、成立に争いのない同第七、第三七号証の各記載および証人岡本政雄、須藤聡の各証言によれば、係長制度の実施により誕生した係長は八一名、全行員に対する係長を含めた役席者の割合は二八パーセントで、男子行員については、約二人に一人は役席者ということになつたこと、および従組の代議員会(ちなみに、代議員会は各職場ごとに組合員から選出された代議員によつて組織され、代議員会に次ぐ議決機関である中央委員会は代議員から選出された中央委員によつて組織される)は、最高議決機関である総会に次ぐ議決機関であるが、平岡執行部成立と同時に選出された代議員九〇名中、役席組合員であつたものは一九名にすぎなかつたところ、係長制度の実施に伴ない新に係長に昇格する者がでたため、昭和三八年二月初め頃においては、役席組合員がその半数近くを占めるに至つたことが認められる。

(2) また、原告銀行の「業務組織」(前掲甲第一号証)に「係長を置くことがある」と規定されていることは当事者間に争いがなく、前掲乙第七、第三九九号証、成立に争いのない同第二〇八、第二九一号証、弁論の全趣旨により成立の認められる甲第六六、第七二号証、証人岡本政雄の証言により成立の認められる丙第六号証の各記載および右証言を併せ考えれば、昭和三六年頃原告銀行から従組に対し、係長制度を実施するについて打診があつたが、従組が賛意を表しなかつたため立消えとなつたことがあつたこと、昭和三七年一一月九日、原告銀行は従組に対し、係長制度実施そのものについてではなく、同月二〇日を実施予定日として、それに伴う職務手当の支給について労働協約に基づく協議申入れを行なうとともに、人事部ニユースをもつて、原告銀行が係長制度の実施にふみきつたこと並びに係長の職務手当支給に関して従組へ申入を行なつた事実を一般行員に発表したこと、これに対し、従組は、原告銀行が従組との協議前に前記のとおり人事部ニユースを流したこと並びに原告銀行が係長制度の実施そのものは、労働協約上、従組との協議事項ではなく一方的に実施できる事項であるとする態度に抗議するとともに、経営協議会の開催を申し入れたこと、それにより開かれた経営協議会において、係長制度実施そのものについても協議の対象とすることに双方了解し、従組は職場討議に下ろして組合員の意向を集約した上、同月二七日原告銀行に対し承認する旨の回答をなしたものであること、その協議の過程において、原告銀行は係長に対する規程の適用について、一度は一般行員並みと説明しながら部課店長並みであると訂正するということがあつたことが認められ、これに反する証拠はない。

(四)、賃上げ要求組織をめぐる動き

1  運動方針の決定

従組が昭和三七年九月二三日、二四日の両日に亘り平岡執行部発足後の第一回代議員会を開催し、運動方針案を万場一致で可決したことは当事者間に争いがなく、成立に争いのない乙第三三、第四四号証の各記載によれば、右運動方針のなかで、先ず働こうと呼び掛けるとともに、生活ないし労働条件の向上を保証するものは組合員の団結による要求獲得の運動が基本であることを強調していること、取組むべき具体的運動として賃上げ要求、共闘の推進もその一つとしてそれぞれ掲げられていたことが認められる。

2  賃上げ目標の確認

昭和三八年の春闘に関して、従組は昭和三七年一二月一三日第三回中央委員会を開き、五、〇〇〇円を目標に大巾賃上げ闘争を行なうことを確認し、次いで、昭和三八年一月一二日、一三日の両日に亘り第三回代議員会(青婦部員も含めた拡大代議員会兼組合学校)を開き、右中央委員会での方向を確認したことは当事者間に争いがない。

前掲乙第三七八、第三九一、第三九九号証、成立に争いのない同第三八、第四二、第二四七、第二九六、第三八二、第三九七号証、右乙第三七八号証により成立の認められる同第四〇号証、弁論の全趣旨により成立の認められる同第三九、第四一号証の各記載および証人広川郷生、赤嶺忠勝の各証言および参加人代表者平岡重夫本人尋問の結果によれば、第三回中央委員会で確認された前示賃上げ目標は地銀連で決定された金融共闘を目指す春闘の方向に沿つたもので、要求の決定は昭和三八年二月一〇日を目標としたこと、共闘については、共闘であるから画一的な闘いを組むということは全く大きな誤りであり、共闘は自力、独力で闘いうる最善の闘いを組むことにあるという態度を示していたこと、右確認については異論は出ず、第三回代議員会でも前示確認について反対はなかつたこと、同代議員会では、同月一一日から一八日までの間に要求決定のための代議員会を開くという日程を決めたこと、第三回中央委員会における討議の過程において、平岡執行部がその成立後最初に取り組んだ年末臨給(昭和三七年一一月行われた臨時補給金の要求で、従組は地銀連の年間三ケ月の線を下回る二・五ケ月分を要求し、要求どおり獲得した)についての反省と昭和三八年春闘の進め方などについて、中央委員の一部から、「年末臨給獲得は共闘の成果ではなく、要求そのものが正しかつた。」「年末臨給がスムーズに取れたのは、共闘、共闘と声を大きくしなかつたからである。今後も共闘のかけ声をしない方がよいという意見が若い層にある。」、「共闘の成果という実感はない。要求は正当であつたという認識が強く、そのためスムーズに行つたのである。賃上も同様で、抵抗なくまとまる要求がよい。」、「賃上げ要求は今春のようなやり方は無理である。慎重にやるべきである。」、「賃上げ要求のためのストライキは、しないでほしいとの一部の意見がある。」などの発言がなされたこと、その席上、三重分会の広川中央委員から、「執行部の運動の基調に問題はないか。ペースを下げる必要はないか。給与は業績が向上した後に上る。企業の発展の上に立つて、はじめて労使対等ということがいえる。」との発言があり、右発言に対し、中央執行委員の森末次郎は真向から反対の意見を表明したこと、平岡委員長は、「執行部と本店代議員との間に不信感があることは悪い。中央委員と十分話し合いたい。ペースは、みんなに合せる。闘い方は今後の職場討議で十分に論議を尽し、みんなのできるペースで闘う方針である。」旨述べ、その場のとりなしをしたこと、右広川発言に対しては、その後、執行部から「紐付き」であるとか、「御用的」であるとか、かなり強い批判が加えられたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

次いで、昭和三八年一月二〇日各支部別に組合学校が開かれたことは当事者間に争いがなく、前掲乙第三九一、第三九九号証、成立に争のない乙第四七、第一四六号証の各記載、参加人代表者平岡重夫の供述を綜合すれば、右組合学校は執行部の指示によつて開かれたものであるが、執行部は右組合学校の開催につき、支部組合員全員の参加を目標として春闘の具体的方向を打ち出すことを要請したこと、大分、別府および県南の三支部は合同して同日別府市鶴見園において一〇〇名近い組合員の参加の下に組合学校を開催したこと、平岡執行委員長は右三支部合同の組合学校に出席して挨拶を行つたのであるが、予定の一〇分を経過したため、司会の役員から強く降壇を求められ、止むなく挨拶半ばにして降壇せざるを得なかつたこと、執行委員長たる者が、右の如く挨拶の途中で降壇させられるというような事例は、いまだかつてないことであり、平岡委員長は、その場の空気から、従組内部の状勢が深刻になりつつあることを感じ、その直後、別府支部富士見通分会の代議員阿部智次郎に対し、委員長辞任の意を洩らしたことを認めるに足り、右認定に反する証拠はない。

3  第四回代議員会

本店で、昭和三八年一月二四日預金、貸付課合同職場会議が翌二五日非現業職場会議がそれぞれ開催されたことは当事者間に争いがなく、前掲乙第三七八、第三九一、第三九九号証、成立に争いのない同第二九八ないし第三〇〇号証の各記載および参加人代表者平岡重夫本人尋問の結果によれば、右各職場会議は同年一月二九日開催予定の第四回代議員会に備えて各職場で開かれることとなつた職場会議の一つであるが、「銀行経営が一転期を画し原告銀行が従業員の福祉厚生等を打出している時、われわれはこれを信用しよう」、「ストをしなければとれぬような賃上げには反対する」等の理由から、昭和三八年春闘の賃上げ要求額につき、前者の職場会議では二、五〇〇円、後者の職場会議では二、五〇〇円から三、〇〇〇円の線が大勢を占めたこと、大分支部は、右両職場会議の後、急拠、その状況を掲載した「大分支部ニユース」号外を各支部あて殆んどの組合員にわたるように配布したこと(上記大分支部ニユース号外配布の点については当事者間に争いがない)が認められる。

同月二九日開かれた第四回代議員会において要求額は二、五〇〇円から三、〇〇〇円とすべきであるとの意見が大多数の分会の代議員により表明され、昭和三八年春闘の要求額は三、〇〇〇円を出ないことと決議されたこと、執行部は右決議に従い、二、九九五円の要求案を作成し同年二月一五日から全店オルグを開始したこと、右要求案は地銀連傘下の九州地区の組合のなかでは最も低く、他の多数の単組の要求額は地銀連共闘の線で、五、〇〇〇円前後であつたことは当事者間に争いがない。

前掲乙第三〇〇、第三九一号証の各記載、証人工藤俊彦の証言および参加人代表者平岡重夫本人尋問の結果によれば、右代議員会における討議の中で、もとより一部の代議員から、「地銀連共闘の線に沿つて要求を組むべきであり、妥結額がどうなるかは、企業と組合の力関係によつて決ることであるから、当初から共闘の線を大きく下廻る三、〇〇〇円の要求額を組むことは、なつとくできない。」との意見も出たが、大勢を動かすに至らず殊に、三、〇〇〇円要求を支持する代議員の中から、「景気調整、貿易自由化に向う経済状勢下において企業の体質改善が迫られている中で、総評の賃上げ要求額の根拠は明らかでない。組合自体も企業の実体を見きわめ、運動の体質を改善する必要がある。」、「物価上昇率と人事院勧告七パーセントなどの点から、三、〇〇〇円位が妥当で、山かけ要求には賛同できない。総評のために賃上げ要求するのではない。」、「ストライキは労使間にしこりを残すものであるから、賃上げ要求のためのストライキは避けるべきである。金利の引下げ、企業合理化の問題で原告銀行も重大な時期に当面している折柄、労使の信頼関係に立たねばならない。」などの意見がでたこと、執行部は、右代議員会において三、〇〇〇円要求の意見が支配的であるとみるや、原資三、〇〇〇円とした場合における初任給、不合理是正、中だるみ是正がどうなるかについて数字的に説明し、三、〇〇〇円の枠内で組合員各層の要求を満たす要求案の作成がしがたい場合には、一割位の幅を持たせることはできないかと諮つたが、「三、〇〇〇円は動かせない。それで是正できなければ是正しなくともよい。」あるいは「職場討議で決つた三、〇〇〇円の線は、ストライキに訴えたくないという意向から出ているもので、その枠内でできないことはない。」などの意見が出て、否定されたことが認められる。

4  清風会員の大量脱会

昭和二三、四年頃、従組執行部と従組三役経験者とで構成する「清風会」が誕生し、年一回親睦の例会を開くことが常となつていたこと、昭和三七年当時、会員には部長、支店長等の役席者も含まれていたこと、昭和三七年一一月、会員であつた古長一示(再審当時人事部長)が同会の世話人である従組副委員長広瀬健二宛に脱会届を出したが、昭和三八年一月二九日から同月三一日にかけ、日出支店長代理山田昌治ほか一二名がそれぞれ脱会届を出したことは当事者間に争いがない。

前掲乙第三九一、第三九九、第四〇一号証、弁論の全趣旨により成立の認められる同第二〇七号証、参加人代表者平岡重夫本人の供述により成立を認め得る丙第七ないし第一九号証の各記載ならびに証人上田学、中尾与三郎、岡本政雄の各証言、参加人代表者平岡重夫本人尋問の結果を総合すれば、清風会は、従組執行部と従組三役経験者との懇親を目的として作られたものであるが、昭和三四年頃からは、従組三役経験者のみでなく、執行委員経験者も含めるようになり、平岡執行部の成立当時、三役経験者と執行委員経験者の会員数は三〇名であつたこと、昭和三七年一一月七日広瀬副委員長が世話人としてその労をとり、同会の会合を開いていること、前示山田昌治ほか一二名の提出した脱会届はタイプで印刷された同文同様式の用紙を用いており、しかも小倉支店長甲斐二郎の脱会届には、その右上部に常務室直属の総合企画室長大賀孝の筆跡で甲斐二郎殿と記載されていること、右脱会者の大半は非組合員である役席者であつたこと、その頃、会自体の関係で前記のような大量脱退の契機となるような出来事はなにもなく、脱会者よりその理由は明らかにされていないこと、右の大量脱退により清風会は実質上解散状態となつたことが認められ、これに反する証拠はない。

5  平岡、渡辺会談

前掲乙第三、第三七六、第三七八、第三八八(一部)、第三九七第三九九号証、成立に争いのない同第四五、第八一、第八二、第九七、第一五五、第一五九(一部)、第二七五(一部)、第二七九(一部)、第三七五(一部)号証の各記載に証人三井孟、中尾与三郎、野上尚(一部)、渡辺彬(一部)および参加人代表者平岡重夫本人尋問の結果を併せ考えれば、昭和三八年二月二日別府市所在滝元旅館で、平岡委員長は執行部ほか自己に近い中央委員クラスの者一二、三名を集めて会議を開き、執行部の進退を含めて、組合をめぐる情勢分析を行なつた結果、決意を新たにして組合運営に当ることとしたこと(同日滝元旅館で右情勢の検討が行なわれたことは当事者間に争いがない)、その一週間後の同月九日、研修課長代理渡辺彬は富士見通支店行員阿部智次郎宅で、平岡委員長と会い(この点は当事者間に争いがない)、退陣後の人事につき人事部長によろしく取り成すからと、同委員長に退陣を勧め、個人の名を挙げて次期執行部の構成を論じたこと、同課長代理は組合員であつたが、人事部に属するところから、労使とも非組合員に近いものと見ており、右会合については、阿部行員が同課長代理の依頼により仲介に立ち、しかも平岡委員長は会うまではそうとは知らされずにいたこと、同課長代理からは内密にして欲しいという話があつたが、同委員長は、同月一一日執行委員会に諮つて退陣しないという意見をまとめ、翌一二日付の「組合速報」第五五号で、右会合のあつたことおよび退陣はしないということになつたことを発表したこと、同日渡辺課長代理は病気のため自宅で静養していたが、本店貸付課長代理小野喜克および渉外課長代理小野一英が右会合について事情を聴くため、渡辺宅を訪れ、同課長代理に尋ねたところ、口外しない約束であるから阿部行員に尋ねるよういわれたので、小野貸付課長代理において、阿部行員に渡辺宅に来るよう電話をしたこと、それに対し、阿部行員が勤務中で忙がしいから人事課長を通して欲しい旨返答したところ、同課長からタクシーで(その料金が原告銀行払いとされたことは当事者間に争いがない)渡辺宅へ赴くよう指示されたので、同人宅へ赴いたことが認められ、前掲乙第一五九、第二七五、第二七九、第三七五、第三八八号証の各記載中右認定に牴触する部分および証人野上尚、渡辺彬の各証言中右認定の趣旨に反する部分は、いずれも前記採用の各証拠に照らして信用しがたく、他に右認定を動かすに足る証拠はなく阿部行員が渡辺宅へ赴いた上、小野喜克および小野一英の両名は前示会合についての説明をしたこと、そのとき平岡委員長が訪れ、渡辺課長代理に対し「執行部に諮つた結果、前夜の話はお断りする。情宣で流すから了承して欲しい。」旨申し述べて立去つたこと、阿部行員がその後、本店に行き、人事課長、人事部長に会つて、経過を報告したことは当事者間に争いがない。なお、前記乙第三七五、第三八八号証の各記載、証人野上尚の証言によれば、人事課長野上尚は、前示速報によつて平岡・渡辺会談のあつたことを知り、研修課長代理は人事部に属する役席であることから、渡辺研修課長代理の前示行動が、あたかも原告銀行もしくは人事部の指示によるものと誤解される虞れありと考え、同月一三日同代理に対し研修課長代理は組合員ではあるが、人事部に属する役席として軽率な行動であり、今後誤解を招くが如き行動を慎しむような厳重な注意を与えたことが認められる。

(五)、賃金の考え方の発表

1  「賃金の考え方」の発表

昭和三八年二月一三日、原告銀行から、「当行における現行給与体系を人事方針に則り下記のように改めたいと考える」との前文のもとに、年令別最低賃金表を附した具体的改訂案を掲げた「賃金の考え方」なるものが「人事部ニユース」で発表され、全従業員に配布されたことは当事者間に争いがない。

前掲乙第三七五、第三八八号証、成立に争いのない甲第二号証、乙第六六、第二六七ないし第二七二、第三七三号証の各記載ならびに証人野上尚の証言および参加人代表者平岡重夫本人尋問の結果によると、次の事実が認められ、これに反する証拠はない。すなわち、

原告銀行における従来の賃金体系は、いわゆる年功序列賃金体系であり、高校卒一八才の入行者が昇給基準表に基づき昇給した場合の本俸を年令別に示した「本俸年令別最高最低基準表」が行員、労務行員別に作られており、賃上げ要求は同表の年令別賃金額に年令別に一律の金額を加算することを求める形で行なわれていた。同表の最高、最低は昇給基準に基づいて昇給した場合の上限と下限とであり、中途入行者、病欠者などは右基準表に定める最低以下となる。また、年令別に一律加算という方式を続けたため、年令別に凹凸を生じ、その修正の努力は従来もなされたが充分ではなかつた。なお、右基準表の変更は労働協約上の協議決定事項に該当した。

「賃金の考え方」は職能給を導入する前提として、文字通り年令別最低生活を保障するということで最低賃金を定めるとともに、年令別の凹凸を一挙に是正しようとするもので、その資金量が一人平均三、〇〇〇円を上廻るものとなることは考慮ずみであつた。そして、「賃金の考え方」に附されていた年令別最低賃金表には年令別に具体的金額が明示されていたから、同表により、従業員各人は、「賃金の考え方」にもられた賃金体系が実施された場合における自己の昇給額の見当をつけることは容易であつた。

原告銀行は後記のとおり、「行報旬刊」昭和三八年一月一〇日号で四項目からなる「人事方針」なるものを発表し、前記一月一〇日号を含め同月一五日号、同月二五日号、同年二月一日号、同月五日号および同月一五日号の行報旬刊に前後六回に亘り、公正な賃金水準の保持の点を除き、右人事方針の解説を行なつた。前記「人事部ニユース」による「賃金の考え方」の発表は、右人事方針の解説の一環として、その第三項の公正な賃金水準の保持に関してなされたものである。

「行報旬刊」は、昭和三七年一二月頃、原告銀行の経営意思を従業員に伝達するという趣旨で、旬刊として月三回発行の予定で発行計画がたてられたもので、前記一月一〇日号が創刊号で、昭和三八年一月は三回、同年二月は四回発行されたが、その後は発行回数が減り、同年四月は一回のみ、翌三九年には廃刊となつている。「人事部ニユース」は人事部通達の解説をするためのもので、通常は二、三人に一部の割合で配布されていた。なお、行報旬刊は前記発行の趣旨から全従業員に配布されたが九州地方の他の銀行にも配布された。

2  「賃金の考え方」の受取り方

「賃金の考え方」が発表された日の翌一四日、平岡委員長が、人事課長および人事課長代理に会い賃金の考え方について説明を求めたところ、同課長らから「〈1〉資金量は一人平均三、〇〇〇円以上だろう、〈2〉この考え方を実施するとすれば四月一日からになるだろう」との説明を受けたこと、大分支部が、同日、本店現業合同職場大会を、翌一五日、本店非現業合同職場大会を開き、「賃金の考え方」を討議し、その状況を、大分支部ニユース号外で、「すばらしい体系だ、この際、労使の信頼関係を確立しよう」などの見出しで配布したことは当事者間に争いがない。

前掲乙第一五五、第三七三、第三九一号証、成立に争いのない同第一一三、第一一四、第一一七、第一四三、第一四四、第一四七、第二五五ないし第二五七、第二六一、第三〇一、第三一一号証の各記載および証人古手川幸男、岡村雄三の各証言によれば、「賃金の考え方」を賃金改訂の提案と受取つた組合員も多く、従組も「賃金の考え方」は賃金改訂の提案として労働協約による協議事項であるとの見地から、昭和三八年二月二一日開かれた団体交渉の席上、これを直接組合員に配布したことは労働協約の精神に違反する等抗議したが、原告銀行はそれはあくまで考え方であり、提案ではないとして協議の必要はないと突撥ね、その実施についてはいつ実施するかわからない旨、資金量についても作業中である旨答えたこと(同日団体交渉が開かれ、従組から右のような抗議がなされたのに対し、原告銀行が右のように回答したことは当事者間に争いがない)、「賃金の考え方」に示された賃金体系については、労務行員の高令者の間では反対意見が割合と多く、行員のなかにも一部裏があるのではないかと勘ぐる者もあつたが、全体的には好評であつたこと、従組執行部もその趣旨は受け入れられるものであるとして賛意を表していたが、その反面、原告銀行は安定賃金を考えているのではないかと、エビでタイを釣るという俚言を引いて警戒心も示していたことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

3  「賃金の考え方」の説得活動

(1) 昭和三八年二月一四日黎明会および北誠会が、「私共管理者は上司の考え方、本部の方針を部下が正しく理解できるように伝える立場にある」との司会の言葉で「賃金の考え方」について討議し、これに賛意を表する旨の議事内容を、黎明会研究発表として配布したことは当事者間に争いがない。

(2) 前掲乙第一一三、第一一四号証、成立に争いのない同第九九、第一〇〇、第三三三(一部)、第三九六号証、同号証により成立の認められる同第一六一ないし第一六六号証の各記載を併せ考えれば、門司支店次長安藤憲治は、同月一八日頃から翌三月五日頃までの間営業時間中または時間外、同支店外の喫茶店または同支店営業室、応接室等に、同支店女子行員を個別に、あるいは数名一緒に呼び、具体的昇給額を挙げて「賃金の考え方」を説明し、組合要求を組むことに賛成するのか、「賃金の考え方」をのむのか、態度を明確にすることを迫つて、「賃金の考え方」をのむよう説得を行なつたこと、同月六日頃、執行部が同支店に臨み不当労働行為の疑いで調査した際、同次長は「今後個人説得は行なわない」旨言明したことが認められ、前掲乙第三三三号証中、これに反する部分は信用しない。

(3) 成立に争いのない乙第九四、第一一〇(一部)、第三九二号証、同号証により成立の認められる同第一五六号証の各記載を併せ考えれば、玖珠支店次長山田陽二郎は、同年三月四日営業時間中、同支店食堂において、同支店行員石黒雅晴に対し、「銀行からこのように賃金の考え方というものが示されて、行員自身も目覚めて経営が大きく変ろうとしているところだから、今迄の組合のあり方を考え直す必要がある。組合要求は出す必要がない」と話し、同じ頃、他の行員達にも個別に同趣旨の説得をしたこと、同月一一日頃、執行委員木許哲郎が、賃上げ要求討議のため同支店内で開かれた玖珠分会の職場会議に出席しようとしたところ、山田次長から「執行部は部屋に入つてくれるな」と入室を拒まれたが、職場投票により入室したことが認められる。前掲乙第一一〇号証の記載中、これに反する部分は信用しない。

(4) 成立に争いのない乙第九三号証、弁論の全趣旨により成立の認められる同第一七九号証の各記載を併せ考えれば、安心院支店長末広武男は同月一二日頃営業時間中、支店長社宅に同支店行員花木博之を呼び、「平岡委員長は冷酷だ、不当労働行為なんか全店的にやれば恐れることはない。くれるというものを貰えばいいじやないか」と「賃金の考え方」について説得をしたことが認められる。成立に争いのない乙第一〇九号証の記載中、これに反する部分は信用しない。

(5) 成立に争いのない乙第一〇二、第一二一号証の各記載によれば、佐伯支店長代理谷岡勝彦は、同月七日昼休み時間に、同支店行員笠村伸一に対し、「組合執行部は共産党がかつている。銀行の預金が伸びないのは組合のせいだ。もし、銀行を信頼しない場合は自分たちは第二組合を作る」と話したことが認められ、これに反する証拠はない。

4  「賃金の考え方」をめぐる不当労働行為論争

従組が昭和三八年二月二一日原告銀行に対し、「賃金の考え方」を配布したことは組合に対する支配介入であり、また、これを職制を通じて組合員に働きかけることは不当労働行為になる旨の抗議文を提出したこと、同日行われた団体交渉において、原告銀行のなした「賃金の考え方」の発表は、労働協約の精神に反するとの抗議が従組からなされ、これに対し、原告銀行が「賃金の考え方」はあくまで考え方であり、提案ではないと答えたこと、同年三月四日、従組執行部は「組合速報」第六七号で、「執行部の要請」と題し、人事部の考え方を職制が部下に説明し、納得させることは当然だと言えるかも知れないが、組合の活動に影響を及ぼすことは明らかであり、たとえば、組合員が職制の立場で上からの指示で動いていると見られる場合は明らかに不当労働行為を構成するので、組合員は、組合の場に職制の立場を持ち込まないし、持ち込ませないよう要請する旨発表したこと、翌五日、黎明会は従組の右発表について執行部に抗議文を提出するとともに、「われわれ役席者は上からの指示で動いているのではなく、組合員の立場で賃金に対する考え方を皆によりよく理解してもらう努力をしているのである。不当労働行為については、従来の判例の趣旨からすれば、『使用者の発言に不利益取扱の暗示を含み、あるいは利益の喪失を暗示するが如き場合』に支配介入を認めているので、人事部ニユースの考え方の説明はこれに該当しないと思われる。いわんや使用者でない組合員(役席)が説明することは支配介入にならないと解せられます。以上の見解に従い………今後も自信をもつて発言し行動します」旨の声明文を発表したことは当事者間に争いがなく、成立に争いのない乙第四九、第一四一、第一四二、第二四八、第二六五号証、弁論の全趣旨により成立の認められる同第五〇ないし第五四号証の各記載によれば、前記組合速報第六七号で、執行部は、前示の如き要請に続いて、役席組合員が上からの指示で「賃金の考え方」を説得していると見られるような事実があれば、当該事実を署名押印した文書で執行部に至急報告するよう組合員に訴えたこと、同月六日から同月八日にかけて、豊肥会、南風会、一六日会、久大会、北誠会および鶴泉会の六役席会からそれぞれ従組執行部に対し、従組執行部の前記要請に抗議する旨の抗議文が提出され、豊肥会の抗議文は同月八日付豊肥支部ニユース号外に、鶴泉会の抗議文は、その頃発行の別府支部ニユース第二号(号外)に、それぞれその全文の発表がなされたほか、鴻城会は同月八日声明書を発表したこと、右の各抗議文は、いずれも「賃金の考え方」に賛同する立場に立つて執行部の前記要請に反対するものであるが、その中でも豊肥会の出した抗議文の要旨は、「原告銀行が人事方針の一環として発表した「賃金の考え方」が企業の発展を通じて従業員の幸福につながるものであるならば、素直にこれを受け入れるべきであり、このような原告銀行の方針を従業員に周知徹底せしめ、その具現化に努力することは、役席組合員の責務である。役席組合員が企業の繁栄と組合の発展を願つて一般従業員とともに原告銀行の新政策を研究討議する行動をとらえて、紐付き、御用的或は不当労働行為となすが如き執行部の言動は、現状認識を欠き、善良な組合員を迷わせ、ひいては組織に混乱を生ぜしめるものである。」というに在り、北誠会および鶴泉会の抗議文は、役席組合員も組合員であることを強調し、執行部の前記要請は役席組合員の言論と行動の自由を不当に封じるものであるとするものであり、南風会および久大会の抗議文には、従組の地銀連脱退、執行部の退陣要求をする決意のあることすら表明されていることが認められ、これに反する証拠はない。

なお、前掲乙第四七、第一五五号証によれば、前示従組が行なつた「賃金の考え方」の説得行為に対する抗議に対して、原告銀行は関知しないという態度を示したことが認められ、職制ないし役席組合員の「賃金の考え方」の説明ないし説得について、原告銀行が肯定的もしくは否定的な指示をし、または見解を表明する等なんらかの措置を構じたことを認めるに足りる証拠はない。

5  「賃金の考え方」と賃上げ要求案

前掲乙第四七、第一四七、第三七五、第三八二、第三九一号証、成立に争いのない同第四六、第五六、第二六一、第二六三、第二六四、第二八一、第三〇三、第三〇四、第三八〇、第三八四号証、証人工藤俊彦の証言により成立を認め得る甲第一九号証(原告と参加人との間には成立について争がない)の各記載ならびに証人古手川幸男、工藤俊彦の各証言および参加人代表者平岡重夫本人尋問の結果に前示「賃金の考え方」をめぐる諸事実を併せ考えれば、役席組合員ないし職制による「賃金の考え方」の説得がかなり広汎に行なわれたこと、各職場で組合員の間に原告銀行を信頼して原告銀行の具体的提案を待つか、それとも従組独自の要求を組むかについて意見の対立、混乱が生じたこと、「賃金の考え方」が実施されるとすれば、それに要する資金量は一応一人当り三、五〇〇円程度であると予想した従組執行部は、前示第四回代議員会で決議された三、〇〇〇円の線を再検討し組合要求案を組み替える必要ありと考え、三、五〇〇円程度の要求案を組むことについて第四回中央委員会に諮問することとしたこと、昭和三八年二月二六日開催された第四回中央委員会では、中央委員から、賃金要求をせず、原告銀行からの提案を待つとの提案がなされたが、中央委員会としては、第四回代議員会の決定に反する決議はできないとして、右提案は次の代議員会の決定に待つこととされたこと、右中央委員会において、本店を中心とする多数の代議員から、「我々組合員は企業の中で働く人間であり、原告銀行の発表した賃金の考え方に現われた企業の決意を知り、むしろこれを信頼して組合活動を進めるべきである。」、「従組執行部が賃金の考え方をエビ・タイとか、馬と人参とか情宣している状態では、労使の信頼関係は望むべくもない。」、「原告銀行の人事方針に示された考え方を率直に受け容れて信頼すべきである。」、「原告銀行は人事方針を明文化するなど、企業は真に信頼される関係を打ち樹てようとしている。この企業の決意を知れば、従来どおり賃金をおさえるのが経営者だという考えは出てこないし、こういう考えでは労使の信頼関係は成立しない。」などの見解が表明され、従組執行部との間に、組合活動展開の基調について討論がなされたが、討議半ばにして、執行部は時間切れを理由に右中央委員会を閉じたこと、右中央委員会の直後、大分支部は支部ニユース第八号をもつて右中央委員会における基調論争を詳細に報道するとともに、支部ニユース別冊号をもつて、企業に協力することによつて組合員の労働条件ないしは経済的地位の向上を計ることが妥当であり、いたずらに総資本対総労働的な考えで、互に敵対視し、かたくなに一つの殻に閉じこもる態度は、銀行員として又組合員としてマイナスである旨説いて、従組執行部の従来とつてきた闘争を基本とする組合活動を強く批判し、近代的労使関係樹立のためには組合活動の基本を労使の信頼・協調に置くべきであることを強調し、その頃、別府支部においても支部ニユース第二号をもつて同趣旨の見解を表明したこと、同年三月八日本店合同職場会議が開かれ激しい討論の末、翌日に持ち越された投票の結果、一四二票対七二票で銀行提案を待つことを決定し、次いで同月九日には佐伯支部で、同月一〇日には鶴崎支部で、それぞれ開催された支部代議員会において銀行提案を待つという態度が打出されたこと、その頃、別府支部においても、支部中央委員(代議員)の全員は「賃金の考え方」を全面的に支持し銀行提案を待つことに意見の一致を見、同支部組合員の大多数もこれを支持するに至つていたことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

(六)、第五回代議員会

昭和三八年三月一四日第五回代議員会が開催されたが、議長は執行部推薦の従来の慣例を破り、大分支部代議員須藤聡と県南支部代議員野仲一敏がそれぞれ支部推薦で選ばれ、また、従来例がなかつたことであるが、来賓挨拶拒否の動議が可決され、地銀連、県労評からの参会者が退場させられたこと、次いで、(イ)、前示二、九九五円の賃金要求案を廃案とすること、(ロ)、賃金要求を行なわず、銀行の提案を待つこと、および(ハ)、銀行に提案を出すようにとの申入れも行なわないことをいずれも採択したこと、その後、高村大分支部長(黎明会会員)から、「執行部は、原則的な運動方針を固執するあまり、組合員の考え方と基調の相違を生じ、対立感を深めている」との趣旨の退陣動議が出され、「執行部は代議員会等の決定に違反したことはない」、「執行部は人格的には立派だが、『馬とニンジン』的指導性では事態の収拾は困難である」、「銀行に信頼されない執行部にはついていけない」などの意見が交され深夜に及んだ末、採決の結果、執行部退陣動議が可決されたこと、右議長に須藤代議員を推すこと、執行部退陣動議を出すこと等については、同月一三日高村大分支部長と同支部代議員一〇数名の会合で秘かに協議されていたものであること、右退陣動議の可決に対し、平岡執行部は、全員投票で信任されている以上、進退は全員の信任投票によるべきであるとの立場を堅持し、全組合員による信任投票を同月二〇日に行なうこととなつたことは当事者間に争いがない。

前掲乙第一三六、第二六三、第三八〇、第三八四号証、成立に争いのない同第五九、第二五〇、第二五一、第二五八、第二六二、第二八六、第三九五号証の各記載および証人香川信義、高村昭輝、須藤聡、岡村雄三の各証言によれば、執行部退陣動議提出の理由として、〈1〉個人誹謗や正規のルート以外のルートを使つて地下工作をしている執行部は信頼できない、〈2〉組合速報六七号による役席者に対する圧力は役席組合員の自由と権利の侵害であり、現に各支部役席会より続々と抗議文が出されている、この一事をとつても責任をとるべきである、〈3〉最近の各店オルグを見ると地銀連等の外部団体が参加している、このことは従組の自主的な判断を害する、〈4〉代議員と職場とを故意に離反させ、執行部がじかに職場にふれようとしている、これは職場―代議員―執行部という組合の組織を執行部自ら乱すものである、等が挙げられているのであるが、かかる退陣動議が提出された根本的要因は、原告銀行の前示人事方針ことに「賃金の考え方」に対する従組内部における見解、立場の相違・対立にあつたこと、「賃金の考え方」の発表以来各支部役席組合員、中央委員を初めとし、大分、別府地区を中心に、「賃金の考え方」に賛同し、労使の協議・信頼なくしては企業の発展はもとより組合員の幸福の増進は期待できないとし、この際、原告銀行を信頼して従来の闘争至上主義をすて、労使協調による近代的労使関係の樹立に向うべきであるとする考え方を支持する組合員が急速に増加しつつあつたのに拘らず、従組執行部は、このような状勢の推移について十分な把握をせず、依然として、「賃金の考え方」には裏があるとか、エビタイであるとかなどと情宣したほか、「賃金の考え方」を支持する組合員を原告銀行の紐付きであると極め付けるなどして、組合員の生活向上は組合員自らの闘争によつて勝ち取るべきであるとの姿勢を堅持したため、前者の考え方に立つ組合員層(反執行部派)と従組執行部およびこれに同調する立場に立つ組合員層(執行部派)との間に、組合運営の基調を廻る論争が生じ、この組合運営に関する基調論争は、前示の如く、すでに前示第四回中央委員会における討議に現われたが、執行部は時間切れを理由に討議を打ち切つたこと、右第五回代議員会における前示(イ)、(ロ)の採決は、二、九九五円の賃金要求を組むとする執行部提案についてなされたものであるが、出席代議員の三分の二を超える多数によつて否決され、右(イ)、(ロ)の採決となつたもので、その採決の過程において、原告銀行を信頼すべきであるとする意見が大勢を占めていたこと、右の如く、執行部の賃金要求の提案が否決され、執行機関である執行部と議決機関である代議員会との見解の対立した組織の状態を放置するにおいては、或いは従組の分裂という事態にまで進展する危険があり、このような事態を収拾するためには執行部退陣以外には良策がないとの観点から前示退陣動議が提出されたものであること、退陣動議の採決前に、同動議をその場で採決するか、職場に持ち帰つて討議するかについて採決が行われたが、四七票対二六票で、その場で採決することに決し、結局午後一一時五〇分頃、退陣動議は五五票対二九票、白票二票で可決されるに至つたこと、第五回代議員会は三月一四日に引き続いて翌一五日に継続されたところ、同日、執行部は代議員会に対し、「組織の統一を守るため議決機関と執行部との調和を考えねばならないのに、このような事態に立ち至つたことは不名誉なことと思う。さりとて、執行部は組合の民主的運営のルールを守つて来たものであり、代議員は職場で信任され、執行部も全員投票によつて信任されたものである。正規の手続で出ている以上、全組合員の納得できる方法でないと、しこりを残す。筋を守りながら話し合いの努力をしたい。」旨の見解を発表し、暗に退陣決議に従つて執行部辞任の意思のないこと、および執行部の退陣は全組合員の信任投票によるべきであることを仄めかした。同日の代議員会において、執行部退陣決議に関連して、代議員も総退陣すべきであるとの動議が提出されたが、右動議は賛成三二票、反対五二票をもつて否決され、次いで執行部退陣決議に関して全員投票のルールを守るかどうかについての討議がなされたこと、執行部は全組合員の直接投票によつて信を問いたいとの立場を堅持して譲らなかつたが、退陣決議がなされた以上、執行部が自主的に円満退陣することが、職場の混乱を防ぎ組織を守る最良の方法であるとの意見が多数を占め、五七票対二六票をもつて全員投票反対の決議がなされたこと、その間、事態の重大さを憂慮した従組青婦人部は、急拠、支部長会議を開いて事態の収拾について討議を行なつた上、青婦人部本部委員および青婦人部支部長一同名義で中央執行委員並びに代議員に宛てて、「代議員会で採決された執行部退陣決議については、いたずらに職場や組合員を混乱させることなく、執行部は円満な退陣をし、執行部の円満退陣後、現執行部および代議員の諸氏は協力して事態の収拾を計り、速かに新体制を打ち立てることを要望する。」との要望書を提出したこと。しかし、執行部は退陣決議に従う態度にでず、あくまで全員投票を固執したため、遂に代議員会において、前示のとおり、全組合員による信任投票を同月二〇日に行なうことを決議したこと、以上の事実を認めるに足り、右認定に反する証拠はない。

(七)、役席者による不信任説得

1  門司支店

前掲乙第九九、第一一三号証、弁論の全趣旨により成立の認められる同第一六九号証の各記載を併せ考えれば門司支店では次のとおり、不信任投票説得活動が行なわれたことが認められ、他にこれを覆すに足りる証拠はない。ただし、(1)は、右乙第一一三、第一六九号証の各記載によれば、前示第五回代議員会で執行部退陣動議が提出されたことおよび退陣の見通しを語つた中での話であり、不信任投票そのものについての説得活動ではないことが認められる。

(1) 同支店次長安藤憲治は昭和三八年三月一五日昼食時に、同支店女子行員四、五名を食堂に誘い、「この店ではあまり混雑を起こさず互に割り切つて行こう」と話した。

(2) 同次長は、同月一六日営業時間中、同支店応接室に同支店行員賀来照を呼び入れ、信任投票について「一生銀行に勤めるんだから、辛いときも、いいときもある。できれば企業のためになるようにやつてくれないか、妻子もある身だ、不信任に同調してくれ」と説得した。

(3) 同次長は、同月一七日同支店女子行員柳田民子宅を訪れ、同行員に対し、不信任投票をするよう説得した。同日他の同支店女子行員宅も同様説得のため訪れている。

2  玖珠支店

前掲乙第九四、第一一〇(一部)、第一五六、第三九二号証、成立に争いのない同第一一一号証(一部)、弁論の全趣旨により成立の認められる同第一七二号証の各記載によれば、玖珠支店において役席者による不信任投票説得が次のとおり行われたことが認められ、右乙第一一〇、第一一一号証の各記載中、これに反する部分は信用しない。なお、被告ら主張の別紙命令書理由らん第一、8の(13)の記載の事実については、右乙第一七二号証中の、同記載の日に同支店長白石次男および支店長代理後藤光男が元松女子行員宅を訪問し、「執行部退陣署名に捺印させることに成功」とある記載部分のみをもつてはいまだこれを認定するに足りず、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

(1) 同支店次長山田陽二郎は、同月一五日午後一一時三〇分頃、同支店行員中山瑠美宅を訪ね、同行員に対し「代議員会で執行部は不信任を受け、不信任投票をすることになつた。銀行を信頼するように」との説得を一時間余りにわたつて行なつた。

(2) 同支店長白石次男は、同支店長代理後藤光男とともに、同月一九日午前零時三〇分頃中山行員宅を訪ね、同行員に対し、「支店がばらばらになると困る。とにかく不信任するように」と一時間余にわたり説得した。

(3) 山田次長は、同日営業時間中、後藤代理の社宅に同支店行員石黒雅晴を呼び、「次長と個人の両方の立場で話するが、組合速報で投票は闘争であるという文章を見た。話し合いでは自分の立場がなくなる。不信任が多いことは組織を守ることになる。執行部を信任する人は今後敵対視する」といい、また、同日午後五時三〇分頃同社宅に、同支店行員一木三枝子を呼び、同じく不信任投票の説得を約一時間にわたつて行なつた。

(4) 後藤代理は、同日午後七時頃同支店前から自己の運転する乗用車に中山行員を乗せ、同行員宅前で駐車し、車中で約一時間にわたり、不信任投票の説得を行なつた。

(5) 白石支店長は後藤代理を同道し、同日午後一一時頃石黒行員を下宿に訪ね、先に同行員を訪ねていた玖珠分会代議員野上某とともに、石黒行員に対し、「男子行員は君を除いて全員不信任に賛成してくれた、あくまで不信任に反対するならあなただけ、はみだしますよ、私は頭取から支店をあずかつている。組合からでない」と説得した。

3  佐伯支店

前掲乙第一〇二、第一二一号証、成立に争いのない同第一一五、第一二二(一部)号証の各記載によれば、佐伯支店においては次のとおり役席者による不信任投票説得が行なわれたことが認められる。右乙第一二二号証の記載中、これに反する部分は信用しない。

(1) 同支店次長堀端実は、同月一六日午後七時三〇分頃佐伯市内の旅館福美荘に同支店行員笠村伸一を呼び、「店の統一をとる上から、みんな一しよに不信任をしてもらえばよい。われわれの考えをわかつてもらえないなら銀行に職を奉じている間徹底的に闘う。君もここは長いから今度変えようと思う」と説得した。

(2) 同支店出納係長松本吉平は同月一七日午後五時三〇分頃同支店行員玉友和夫宅に同支店行員源修三を呼び、「執行部信任というようなことになれば組合が割れる。組合を分裂させないために大局的にわれわれのいつていることを認識してくれ。なお、支店長から、源は捨ててもいいからともいわれたが、私は努力してみますといつてある」と説得した。

4  安心院支店

前掲乙第九三号証成立に争いのない第一〇九号証(一部)の各記載によれば、安心院支店においては、次のとおり役席者による不信任投票説得が行なわれたことが認められ、右乙第一〇九号証の記載中、これに反する部分は信用しない。

(1) 同支店長末広武男は同支店長代理石川小二郎を同道して、同月一八日午後九時頃同支店女子行員賀来某宅を訪ね、同行員に対し、「票読みの結果は六対四で大体わかつている。あなたも一〇年以上の行員であるし、良識でもつて不信任投票して下さい」と説得し、次いで同日午後一一時頃同支店女子行員山上某を訪問し、約四〇分にわたり同様説得を行なつた。

(2) 同支店長は、同月一九日営業時間中に、同支店長社宅に同支店行員清原篠隆、甲斐照子を呼び、「あすの選挙は良識をもつて不信任するように、結果はすぐわかる」と説得した。

5  宇島支店

前掲乙第九三、第三九五号証、成立に争いのない同第一〇六(一部)、第一〇七(一部)号証の各記載によれば、宇島支店では、次のとおり役席者による不信任投票の説得が行なわれたことが認められ、右乙第一〇六、第一〇七号証の各記載中、これに反する部分は信用しない。

(1) 同支店長河野喜通は、同月一六日午後八時頃自宅に同支店行員神志名章夫を呼び、「店の中が暗くなると困る、不信任にまとめてくれ。名簿を出さなければならない」と説得した。

(2) 同支店長は、同月一七日昼頃、自宅に同支店行員河野光男を呼び、「名簿の提出を求められているので、信任か不信任か態度を聞きたい。店全体みんなで話合つて態度をきめたということで不信任投票してはどうか」と説得を行なつた。なお、その場に同支店長代理浦上勲、南某が同居し、浦上代理は河野行員に対し、「白票でも投じられないか」といつている。

6  津久見支店

成立に争いのない乙第一〇三、第一二三(一部)、第一二四(一部)号証の各記載を併せ考えれば、津久見支店においては、次のとおり役席者による不信任投票説得が行なわれたことが認められ、右乙第一二三、第一二四号証の各記載中、これに反する部分は信用しない。

(1) 同支店長代理内田実は、同月一七日夜同支店行員大下某、清水某、丹波某、平田某の各人宅を訪問し、それぞれに対し、不信任投票の説得を行なつた。

(2) 同支店次長三浦賢二、内田代理は同月一八日午後九時頃同支店行員藤沢武宅において、同支店行員高橋昭一に対し、「平間執行部の行動は銀行の方針にもとるので、不信任しよう。銀行の方針を徹底するのがわれわれ役席者の務めだからこうして説得に廻つている」と説得を行なつた。

(3) 三浦次長は、同月二〇日信任投票の直前、同支店営業室で同支店組合員全員に「良識ある投票をするように」と呼びかけた。右良識云々というのは、前示第五回代議員会で執行部退陣が決議されたのだから、それに従うのが良識ある投票であるという趣旨である。

7  本店

成立に争いのない乙第一〇四、第一一八、第一一九、第二八二、第二八三、第三二一、第三二二(一部)、第三九三号証、同号証により成立の認められる同第一五七号証の各記載によれば、本店においては、次のとおり役席者による不信任投票の説得が行なわれたことが認められる。右乙第三二二号証の記載中、これに反する部分は信用しない。なお、被告ら主張の別紙命令書理由らん第一、8の(15)の事実中、女子行員河野悦子に対し不信任説得が行われたとの事実はこれを認めるに足りる証拠がない。

(1) 本店為替課長代理菊川哲郎、同課係長小林弘一は、同月一七日正午頃、為替課女子行員朝久野照子宅を訪れ、同行員に対し、「不信任に為替課はまとまつていきたい。一人でも信任が出た場合は村八分というようなことになつても面白くなかろうし、仕事の面でも困る」と説得した。

(2) 同店営繕課長代理福光泰雄は、同月一八日夜同店行員宮城某、賀来某宅を訪問し、それぞれ不信任投票の説得を行なつた。なお、宮地行員宅へは庶務課長代理後藤安弘が同行している。

(3) 福光代理は、同月一九日午前一一時三〇分頃本店営業室で、営繕課女子行員篠原房恵に対し、「不信任要望書に賛同していただきたい」と説いたが拒否されている。次いで、同課係長内田福一は、同日午後〇時四五分頃から本店庶務課書庫に同行員を導き、約一時間半にわたり不信任投票の説得を行なつた。

(4) 後藤代理は、同日午前一〇時三〇分頃本店重役食堂室に庶務課行員河野悦子を呼び、「現執行部は企業内組合の域を脱し、地銀連の方式によつて執行して行くことに組合員の不満不信がある」と暗に不信任投票の説得を行ない、同日午後二時三〇分頃同室において、同課女子行員林喜代子ほか三名に対し、同様説得中、福光代理も来て、これに加わり、「銀行は非常に重大な時期に直面している。過去のような組合運動の方針では業績の発展もなく、支店設立認可も出ないことになる。従業員が目ざめて業績の向上につくすべきである」と説いた。

(八)、信任投票から分裂まで

昭和三八年三月二〇日前記信任投票が行なわれ、同月二三日中央選挙管理委員会よりその結果の発表がなされたが、有効投票総数一、一一八票、信任四五三票、不信任六三四票、白票三一票であつたこと、従組は右発表をまたずに、前示のように同月二二日大分県地方労働委員会に本件救済申立をなしたこと、同年四月一二日前記高村、須藤ら代議員五六名が執行部と異なる新しい運動を展開する旨宣言し、同月一五日大分市内旅館で、大分銀行労働組合結成総会を開き、古手川幸男を執行委員長に選び、従組は分裂するに至つたことは当事者間に争いがない。前掲乙第三八二号証、成立に争いのない同第二五二、第三〇五、第三〇六、第三〇九、第三一四ないし第三一六号証、証人工藤俊彦の証言により成立の認められる甲第二〇、第二一、第二八号証、弁論の全趣旨により成立の認められる乙第二二〇号証の各記載ならびに右証言および証人高村昭輝、須藤聡、古手川幸男の各証言によれば、その間、同年三月二七日平岡執行部は常識的にはやめるべきだが事態を重視して残留することに決定した旨発表したこと、これに対して、直ちに大分支部中央委員らが執行部に抗議し、今後の組合運営を協議するため、中央委員会なり代議員会なりを開くことおよび前示救済申立につき機関の承諾を得るべきことを要請したこと、同年四月一〇日中央委員会が招集され、その席上、中央委員から早急に代議員会を開くよう要求が出て執行部は来週中ということで日程の確定については一任をとり付けようとしたが、中央委員の納得を得られず、遂に両者の間は決裂という状態におちいつたこと、平岡執行部の不信任に組みする中央委員らは同月一二日に代理委員会を開催することを決議し、そのほとんどがそのまま大分市内の旅館に陣取り、新労の結成を決意し、同日代議員九三名中五六名を集めて前示新運動展開宣言となつたこと、なお、同月一五日午前九時現在では新労加入者は六五四名であつたことが認められ、これに反する証拠はない。

(九)、賃上げ問題の結末

前掲甲第二八号証、乙第六六号証、成立に争いのない同第六〇、第六一、第三七一号証、証人古手川幸男の証言により成立の認められる甲第二三、第二五号証、証人野上尚の証言により成立の認められる同第四四ないし第五一号証、弁論の全趣旨により成立の認められる同第二六号証の各記載ならびに右各証言および証人須藤聡の証言によれば、昭和三八年四月二一日新労の第一回全員大会が開かれ、原告銀行から賃金の提案を早急に引出すため団体交渉を開始することが確認され、翌二二日新労執行部は原告銀行に対し、賃金の提案をするよう申入れ、直ちに原告銀行から提案を得たこと、その提案の内容は、学卒初任給額、職務手当額、臨時労務行員・嘱託についての加算額を具体的に提示し、実施日が同月一日とある以外は前示「賃金の考え方」そのままであること、数回の団交を経て一部手直しが行なわれたうえ、新労との間では同年五月九日妥結したこと、従組に対しても、労組と同じく同年四月二二日同一内容の提案がなされ、同年七月二三日新労と同一内容で妥結したこと(新労から右提案がなされ、原告銀行が右のように新労とともに従組に対し、賃金提案をなしたことは当事者間に争いがない)、右資金量は、途中回答で従業員一人当り三、〇〇五円、妥結したところで三、二七〇円であつたことが認められこれに反する証拠はない。

第三、原告銀行の人事管理施策の展開

前掲甲第一、第八五号証乙第六六、第二六七ないし二七二第三七五号証、証人野上尚の証言により成立を認め得る甲第四二、第五二(原告と参加人との間においては成立に争いがない)号証、弁論の全趣旨により各成立を認め得る甲第九、第二九、第三〇、第四三、(原告と参加人との間においては成立に争いがない。)第六三号証、第六五号証の一ないし三、第六七ないし第七二号証の各記載、証人野上尚、津下邦雄の各証言を総合すれば、次の各事実を認め得る。

(一)、原告銀行の保有する預金高は、昭和二八年四月頃には全国地方銀行六六行中、第二八位にあつたが、年々低下し、昭和三五年には第三五位に転落したのみならず、相互銀行証券会社などの進出により、従来その営業基盤であつた大分県内における預金占有率も昭和三四年頃から逐次低下の傾向をたどることとなり、他の金融機関との激しい競走下に置かれるに至つた。このような状況に直面した原告銀行は、経営の合理化による預金増強の推進方策として、昭和三四年四月頃から業務機構の改革整備並びに充実を計る一方、事務の機械化を進めて来たものであるが、業務発展のための資料とする目的から、昭和三五年一一月、役席者を除く一般行員八二五名(男子五〇五名、女子三二〇名)を対象に九〇項目にわたる事項について意見調査を実施した。右行員意見調査の結果、原告銀行の各職場における従業員は、銀行業務の勉強の必要性を感じそのための研修会などの開催を強く望んでいるが、預金増強などに対する意欲は案外に低調であり、一方、役席者の部下行員に対する指導力はきわめて欠如していることが看取された。そこで、原告銀行は従業員の研修、訓練を充実してその能力の開発を計る必要ありと判断し、昭和三六年二月人事部に研修課を新設し、従業員の指導、教育、研修に関する事務を分掌せしめ、一般行員および役席者の研修に努力を傾けた。原告銀行は更に昭和三七年二月全行員に対し、(イ)、預金不振の原因、(ロ)、預金増強の抜本策および(ハ)、勤務意欲向上の方策の三項目について意見書の提出を求めたところ、全行員の四一・七パーセントに当る五二〇名(男子行員四三六名、女子八四名)から意見書が提出され、その集計結果は同年五月二三日付総合企画室通達第四号をもつて部、課支店長宛に通達された。右行員意見書の集計結果によれば、前記(イ)の項目に関しては、経済状勢の悪化などの外部的要因を指摘しているものは比較的に少なく、預金不振の原因は主として内部関係にあるとする意見が多く、預金の増強を計るためには正常な労使関係の確立が必要であるとする意見もかなり見られ、(ロ)の項目に関しては研修の方法、内容などに関する意見が多く、研修についての関心の深いことが知られ、労使協調による預金増強を強調する意見も少なくなく、また(ハ)の項目については原告銀行の長期計画による預金増強対策に対応して厚生面における施策の拡充、改善を求める意見が多く、能率給への切替を望む意見もかなりの数に達した。

(二)、昭和三七年は原告銀行創立七〇周年に該り、数多くの記念行事が行われたが、原告銀行は、この記念すべき年に当つて経営基本方針を確立して、これを明らかにする必要ありとし、同年六月頃、「銀行の発展を通じ社会の繁栄に貢献することを本来の使命とする。」との行是を制定し、この基本方針に基づいて人事方針、業務方針などの部門管理方針を設立、実施するに至つたが、とりわけ人事部門管理方針は、「銀行における最大の資産は従業員であり、銀行繁栄の重要な基盤は経営者と全従業員の信頼関係にある。」との考え方に立脚して展開された。その施策の一環として、原告銀行は同年一〇月一日を期して出勤簿の廃止、停年退職者表彰制度、たんじよう日祝品の贈呈を実施したほか、都市銀行留学制度、本店留学制度、業務研究制度、係長制度などを順次実施した。都市銀行留学制度は、先進銀行における諸般の状況を実地に視察体験せしめ、業務遂行の能率化と併せて従業員の資質の向上を図る目的で同年一〇月から実施されたものであるが、その実施内容は、男子行員については、毎月二回中堅行員を対象に一回につき二名を都市銀行である第一銀行に派遣し、その本店および東京都内の支店において九日間にわたつて職場訓練と総合訓練を受けしめるものであり、また女子行員については中堅行員を一回につき数名を二日の日程で第一銀行福岡支店に派遣するものであつた。本店留学制度は、本支店間の意思疎通を計り業務研修を行なう趣旨で同年一一月から実施されたものであるが、毎月三回にわたり一回につき支店もしくは出張所の行員一〇名を一日間の日程で本店に集め、執務の研修、頭取重役を囲んでの座談会、夕食懇談会を行なうものであつた。また、業務研究制度は、従業員の自主的意思に基づいて自己研鑚により各自の能力を高め、その研究作品を銀行業務の推進に直結せしめんことを目的として同年一一月一〇日から実施されたもので、一般従業員から個人または五名以内の共同で銀行業務の推進に関する研究の希望者をつのり、採用者に対し研究費の補助(個人研究の場合は五、〇〇〇円、共同研究の場合は一〇、〇〇〇円)や研究テーマについての助言および図書の斡旋などを行ない、研究者より提出された論文は、逐次、行報別冊に掲載して全行員に発表されるというものであつた。

(三)、係長制度は、前示のとおり同年一二月五日から実施されたものであるが、原告銀行の業務組織第五条第二項「支店長の下に次長、支店長代理または係長を置くことがある。」同条第五項「出張所長の下に出張所長代理、係長を置くことがある。」との各規定に基づいて行われたものであつた。従来、原告銀行では業務処理の必要から所属長により、便宜上、係の「主任」を設けている職場があつたが、業務組織上「主任」なる制度はないばかりか、その責任、権限も明確ではなく、それに対する職務手当の支給もされていなかつた。係長制度は、そのような地位にある従業員を組織上の成規の制度である係長に任命し、その責任と権限を明確にし、その地位にふさわしい職務手当を支給することが、組織の能率的な運営を期する上に必要であるとの見地から、後記九州地方における他の地方銀行などの実施状況をも参酌して実施に移されたものであつた。同年一一月初め当時、九州地方における地方銀行である福岡銀行、鹿児島銀行、一八銀行および佐賀銀行では、すでに係長または係長に相当する役席制度を実施しており、福岡銀行においては従業員二、八九八名に対し役席者は一、〇七一名で、そのうち係長は五〇〇名、鹿児島銀行においては従業員一、二三四名に対し役席者は二八三名で、そのうち係長に相当する役席者は三五名、一八銀行においては従業員一、一〇一名に対し役席者は二九〇名で、そのうち係長に相当する役席者は四八名、佐賀銀行においては従業員一、一一三名に対し役席者は三五一名で、そのうち係長に相当する役席者は五三名であつたが、原告銀行においては総従業員は一、三〇五名で、そのうち役席者は二七六名であつた。(係長制度の実施により原告銀行では八一名の係長の任命が行われたことは前示のとおりであり、この事実からすれば、係長制度の実施後、原告銀行では総従業員約一、三〇五名中、役席者は約三五一名となつたことが窺われる。)

(四)、前示行是の制定後、原告銀行は昭和三七年一〇月以降行是の精神に基づいて、前示のとおり、種々の人事管理の施策を実施して来たが、昭和三八年一月一〇日、同日号の行報旬刊をもつて、「従業員は銀行における最大の資産であり、銀行繁栄の重要なる基盤であるので、積極的に人材の育成をはかり、その人格的技能的特性を尊重し、公正な人事を行う。(1)、従業員の資質の向上、能力の開発のために適正な教育訓練を行う。(2)、従業員の職務遂行の評価および適性発見のために、公正な考課を行なう。(3)、従業員が健康にして文化的な生活を維持できるような公正な賃金水準を保ち、積極的な福利厚生の向上を図る。(4)、従業員相互の意思疎通をはかり、信頼関係を深め、協力態勢を確立する。」との人事方針を発表し、前記のとおり、行報旬刊一月一〇日号、一月一五日号、二月一日号、二月五日号、二月一五日号および二月一三日付人事部ニユースをもつて右人事方針の四項目について逐次解説を行なつた。右人事方針の(3)項に示された賃金体系は、生活保障と職能的個別賃金への指向を骨子とするもので、前記二月一三日付人事部ニユースによつてなされた「賃金の考え方」の発表は、その前者である生活保障賃金の確立に関するものであつて、「賃金の考え方」は昭和三七年二月頃すでにその骨子が纒まり、その頃実施された前示行員意見調査の結果を参酌した上、同年一二月中旬頃原告銀行の役員会において承認せられたものである。原告銀行は、後者の職能的個別賃金体系については、昭和三九年二月二六日付人事部ニユース第八四号をもつて「賃金の考え方(続)」として発表した。「賃金の考え方」が前示のとおり行報旬刊によらないで人事部ニユースをもつて発表されたのは、行報旬刊は他行にも送付されることとなつていた関係から、「賃金の考え方」に示された具体的数字が他行に漏れるのを避けるために採られた措置であつた。「賃金の考え方」に示された生活保障賃金体系については、前示のとおり、新労との間には昭和三八年五月九日、従組との間には同年七月二二日、それぞれ妥結し、また「賃金の考え方(続)」に示された職能的個別賃金体系については、新労との間には昭和三九年五月一五日、従組との間には同年六月六日、それぞれ妥結を見た。

第四、不当労働行為の成否

上記第二において認定した事実によれば、従組平岡執行部は九〇パーセント以上の信任投票を得て昭和三七年八月三一日成立したこと、同年九月二三日、二四日の両日に亘つて開かれた平岡執行部発足後の第一回代議員会において、地銀連の共闘方式に則る闘争方針が決定せられ、同年一二月一三日に開かれた第三回中央委員会において、昭和三八年の春闘に関し地銀連の決定した金融共闘の線に沿つて五、〇〇〇円を目標に大巾賃上げ闘争を行なうことが確認され、この闘争目標は昭和三八年一月一二日、一三日の両日に亘つて開かれた第三回代議員会においても確認されるところとなつたが、同月二九日開かれた第四回代議員会において、昭和三八年春闘の賃上げ要求額は三、〇〇〇円を出ないことと決議されたこと、平岡執行部は右決議に従つて二、九九五円の賃上げ要求案を作成し、同年三月一四日、一五日の両日に亘つて開かれた第五回代議員会に提案したが、右提案を廃案とし賃金要求は行わず銀行提案を待つとの決議がなされるに至つたこと、右代議員会において、高村大分支部長から平岡執行部退陣の動議が提出され、右動議は五五票対二九票、白票二票で可決されたところ、平岡執行部において組合員全員による信任投票を主張したため、五五票対二六票をもつて全員投票反対の決議がなされたが、平岡執行部はあくまで全員投票を固執した結果、同月二〇日を期して組合員全員による信任投票を行なう旨の決議が採決され、ここに全組合員の投票によつて平岡執行部の信任が問われることとなつたこと、同月二〇日行われた全組合員による投票の結果は、有効投票数一、一一八票、信任四五三票、不信任六三四票、白票三一票で、平岡執行部を不信任とするものが過半数を占めたが、平岡執行部は右信任投票の結果を顧慮することなく依然残留することに決し、同月二七日その旨の発表を行なつたこと、大分支部中央委員らは、右執行部の決定に抗議し、今後の組合運営に関する協議のため中央委員会もしくは代議員会の開催を要請し、右要請に基づいて同年四月一〇日開かれた中央委員会において、中央委員から代議員会の早急開催の要求が出されたが、平岡執行部において開催日程の決定の一任を求めて譲らなかつたため、遂に両者の間は決裂状態に陥つたこと、その結果、同月一二日、九三名の代議員のうちの五六名によつて執行部と異なる新しい運動を展開する旨の宣言がなされ、次いで同月一五日労組(同日午前九時現在における加入者は六五四名)の結成を見、ここに従組は分裂するに至つたことが明らかである。

被告は、上記平岡執行部の成立から従組分裂に至るまでの過程において現われた前示役席会の新発足、前示第四回代議員会における賃上げ目標額変更の決議、前示清風会員の大量脱退、前示原告銀行の行なつた係長制度の実施並びに「賃金の考え方」の発表、前示役席者による「賃金の考え方」の説得活動および前示役席者による不信任投票の説得行為などは、原告銀行の反組合的意図もしくは右意図を体した役席組合員によつて惹起された一連の措置であつて、「賃金の考え方」の発表、役席者による「賃金の考え方」の説得活動、および役席者による不信任投票の説得行為は、いずれも原告銀行の組合運営に対する支配介入として不当労働行為に該ると主張する。

(一)、平岡執行部の成立後一ケ月余を経過した昭和三七年一〇月五日大分地区において黎明会が新発足し、これに伴ない従組支部所在の各地区に黎明会とほぼ同じ会則をもつ役席会が相次いで発足したこと、その後同年一一月二日に各地区役席会の代表者ら約三〇名によつて開かれた南明荘会議において、出席者の一部の者(いずれも支店次長)から従組運営の批判ないしは組合対策についての論議がなされたこと、その席に人事部長が在席し、会議終了後の夕食会に人事課長および人事課長代理の両名が出席したこと、また役席会は組合専従者および組合と密接な関係にある者の加入を除外もしくは敬遠する態度にでたことは、前示のとおりである。しかし、これらの事実から、直ちに役席会発足の目的が組合対策にあつたものと即断することは相当ではない。前記第三の(一)、(二)において認定した諸事実に照せば、当時、役席にある組合員といえども自己啓発の意欲を刺戟されたであろうことが窺われるから、役席組合員らが役席者としての自覚に基づいて相互研鑚を目的とする組織を創つたとしても、あながち不自然な現象とはなしがたく、また、南明荘会議において一部の者から発せられた「役席会の目的を組合対策であるとすべきである。」との意見は採択されず、「役席会はあくまで役席者相互の研鑚を目的とし、これをはずれた運営をしない。」との決定がなされている事実に鑑みれば、少なくとも役席会の発足そのものは、組合対策の目的に出たものではなく、役席者の相互研鑚を目的とするものであつたと認められないではない。ことに、南明荘会議は別府市内において約三〇名の代表者らを集めての会合であつたことから見れば、人事部長などの出席の事実を秘匿することは、とうてい期しがたい状況にあつたものと推測できるから、いやしくも人事部長、人事課長たる程の者が、如何に招待を受けたからといつて、組合対策を目的とする会の代表者らの会合に列席する程、無分別であつたとは考えられない。役席会発足の目的が相互研鑚にあつたればこそ、人事部長らが招待され、また招待に応じたものと考えるのが妥当である。

(二)、平岡執行部発足後の第一回代議員会において、地銀連の共闘方式に則る闘争方針が決定され、次いで昭和三七年一二月一三日の第三回中央委員会において、昭和三八年春闘に関し地銀連決定の金融共闘の線に沿つて五、〇〇〇円を目標に大巾賃上げ闘争を行なうことが確認され、この闘争目標は昭和三八年一月一二日、一三日の両日に亘つて開かれた第三回代議員会においても再確認されたところ、同月二九日の第四回代議員会において、賃上げ要求額は三、〇〇〇円を出ないことと決議されるに至つたことは、前記認定のとおりである。しかし、前記第二の(四)の3において認定した事実によれば、第四回代議員会における前示賃上げ目標額変更の決議は、出席代議員の自由な討議によつて採決せられたものであることが明らかであるのみならず、この間、原告銀行において右代議員会における決議の結果に影響を及ぼすが如き作為にでたことを認めるに足る証拠はない。第三回中央委員会において、中央委員の中から昭和三七年春闘に際して行われたストライキないしは地銀連方式に則る金融共闘の進め方に対する批判的意見が表明せられ、第四回代議員会の直前に開かれた本店における預金貸付課合同職場会議、非現業職場会議において、「銀行経営が一転期を画し、原告銀行が従業員の福祉厚生などを打ち出している折柄、これを信頼しよう。」、「ストをしなければとれぬような賃上げ要求には反対する。」などの理由から、二、五〇〇円ないし三、〇〇〇円の賃上げ要求意見が大勢を占めた事実と、前記第三において認定した原告銀行の人事方針の発表とその発表に至るまでの間に原告銀行が人事管理部門において種々の施策を行なつて来た事実とを合せ考えれば、第四回代議員会において地銀連の共闘方式に則る闘争方針が批判せられ、地銀連決定の線に沿つた賃上げ目標額が一転して、それを下廻る三、〇〇〇円に変更せられるに至つたのは、原告銀行が、昭和三七年六月の行是制定以来、「銀行における最大の資産は従業員であり、銀行繁栄の基盤は経営者と全従業員の信頼関係にある。」との考えに立つ人事管理方針に則つて出勤簿の廃止を始めとして都市銀行留学制度、業務研究制度などの諸施策を推進したことにより、本店を中心として一般従業員の間に闘争中心主義の組合運動への疑問と労使協調もしくは労使の信頼関係樹立に対する関心が期せずして次第に高まり、このような職場の空気が代議員を通じて代議員会における討議に反映せられた結果によるものと認められる。もつとも、原告銀行の前示四項目からなる人事方針の発表は、第四回代議員会前の昭和三八年一月一〇日になされたものであることは前示のとおりであるが、前記第三において認定した事実に照せば、右人事方針の発表が第四回代議員会における決議を特定の方向に向けることを意図してなされたものとは、とうてい認めがたく、他に原告銀行がそのような目的から前示のような時期を選んでこれを発表したものであることを認めるに足る証拠はない。

(三)、昭和三七年一二月五日に行われた係長制度の実施により、八一名の係長が生れ、全行員に対する役席者の割合が二八パーセントに達したこと、平岡執行部成立と同時に選出された代議員九〇名のうち役席組合員は一九名にすぎなかつたところ、係長制度の実施により昭和三八年二月初め頃には、代議員の半数近くが役席組合員によつて占められるに至つたことは、前示のとおりである。しかしながら、右の事実から直ちに原告銀行が従組の性格の転換もしくは代議員会において原告銀行にとつて好ましい機関決定のなされることなどを意図して係長制度の実施に及んだものとは即断しがたい。係長制度の実施に当り、原告銀行が係長制度の実施そのものは労働協約上従組との協議事項ではなく一方的に実施できる事項であるとの態度にでたことに対し、従組からの抗議がなされるという一悶着があつたにせよ、結局において従組は職場討議にかけて組合員の意向を集約した上、係長制度の実施を承認し、原告銀行は従組の右承認を得た上これを実施するに至つている事実に、前記第三の(三)において認定した事実を合せ考えれば、係長制度の実施は原告銀行の反組合的意図に基づいて行われたものではないことを窺い得る。他に右認定を覆えし係長制度の実施が原告銀行の反組合的意図に基づくものであることを肯認せしめるに足る証拠はない。

(四)、昭和三八年一月二九日から同月三一日にかけ、一三名の会員が清風会を脱会するに至つたことは前示のとおりであるが、右一三名の提出した脱会届はタイプで印刷された同文同様式の用紙が用いられており、小倉支店長甲斐二郎の脱会届には、その右上部に原告銀行常務室直属の総合企画室長大賀孝の筆跡で甲斐二郎殿と記載されていることから見れば、右一三名の脱会については原告銀行のなんらかの指示ないしは働らきかけがあつたのではないかとの疑をさしはさむ余地がないではない。しかしながら、清風会は従組執行部と従組の三役経験者および執行委員経験者との懇親を目的とする会であつて従組の成規の組織をなすものではなく、また右脱会者の大半が非組合員である役席者であつたことに照せば、仮りに右一三名の脱会が原告銀行の指示もしくは働らきかけに因るものであつたとしても、そのことから直ちに原告銀行に反組合的意図があつたものと認めるのは相当ではない。他に右脱会が原告銀行の反組合的意図に基づくものであることを認めるに足る証拠はない。

(五)、従組執行部が第四回代議員会の決議に従つて作成した二、九九五円の要求案につき全店オルグをしていた時期に、「賃金の考え方」の発表がなされたこと、「賃金の考え方」にもられた賃金体系の実施には、従業員一人平均三、〇〇〇円を上廻る資金量を要するものであり、このことは原告銀行において考慮ずみであつたこと、「賃金の考え方」に附されていた年令別最低賃金表には年令別に具体的金額が明示されており、従業員は同表により「賃金の考え方」にもられた賃金体系が実施された場合における各自の昇給額の見当をつけることができたこと、および原告銀行は「賃金の考え方」を人事部ニユースをもつて発表し、全従業員にこれを配布したことは、前示のとおりである。しかしながら、「賃金の考え方」の内容が右の如きものであり、かつ原告銀行が前記のような時期に前記のような方法によつてこれを発表したからといつて、そのことだけで直ちに組合運営に対する支配介入であると即断することは相当ではない。そもそも企業経営者が自ら進んで従業員の労働条件ないしは福利厚生面についての方策を企画立案し、これを一般従業員に公表することは、それが反組合的意図によるものと認められるような特段の事情のない限り、企業経営者の自由になし得べき事柄であるといわなければならない。前記第三の(一)、(二)および(四)において認定をした各事実に照せば、「賃金の考え方」の発表が、その発表の時期、方法、内容が前記のとおりであることを考慮に入れても、原告銀行の反組合的意図に基づくものとは、認めがたい。すなわち、原告銀行は昭和三五年一一月業務発展の資料となす目的から役席者を除く一般行員八二五名を対象に意見調査を実施し、右意見調査の結果、従業員の研修、訓練を充実してその能力の開発を計る必要ありとし、昭和三六年二月以降、一般行員および役席者の研修に力を入れ、更に昭和三七年二月には全行員を対象に意見調査を行なつたこと、原告銀行の創立七〇周年を期して昭和三七年六月「銀行の発展を通じ社会の繁栄に貢献することを本来の使命とする。」との行是を制定して原告銀行の経営基本方針を確立し、爾来この行是の精神に則り、「銀行における最大の資産は従業員であり、銀行繁栄の重要な基盤は経営者と全従業員の信頼関係にある。」との人事管理方針を打ち樹て、出勤簿の廃止を始めとし都市銀行留学制度、業務研究制度などの諸施策を推進して従業員の資質の向上に努力を傾け、昭和三八年一月一〇日四項目からなる人事方針を発表したこと、右人事方針は、その内容からして、原告銀行が行是制定以来推進し来つた人事管理方針の集大成ともいうべきもので、そこにも銀行における最大の資産は従業員であり、従業員こそ銀行繁栄の重要な基盤であることが謳われ、従業員を信頼し従業員に期待することをもつて人事管理の要諦となすものであつて、その具現策として(1)、適正な教育訓練、(2)、公正な人事考課、(3)、公正な賃金水準の保持と福利厚生の向上、(4)、従業員の相互の信頼関係と協力態勢の確立を四つの柱としているものであること、原告銀行は行報旬刊昭和三八年一月一〇日号、同月一五日号、同月二五日号、同年二月一日号、同月五日号および同月一五日号をもつて前後六回に亘り、公正な賃金水準の保持の項を除き、右人事方針の解説を行ない、同月一三日付人事部ニユースで公正な賃金水準の保持についての解説として「賃金の考え方」を発表したものであること、右人事方針の第三項に示された賃金体系は、生活保障賃金と職能的個別賃金体系への指向を骨子とし、「賃金の考え方」は前者の生活保障賃金の確立に関するものであつて、後者の職能的個別賃金体系については昭和三九年二月二六日付人事部ニユースをもつて「賃金の考え方(続)」として発表されていること、「賃金の考え方」にもられた生活保障賃金の考え方は、昭和三七年二月頃その骨子が纒まり、その頃実施された前記行員意見調査の結果を参酌した上、同年一二月中旬頃原告銀行の役員会において承認せられたものであること、右人事方針の解説を掲げた前記の各行報旬刊は、「賃金の考え方」を掲載した前記人事部ニユースと同様、全行員に配布されていること、「賃金の考え方」の発表が行報旬刊によらず人事部ニユースによつてなされたのは、行報旬刊は他の銀行にも送付されることとなつていた関係から、「賃金の考え方」に示されている具体的数字が他行に漏れるのを避けるための措置であつたこと、以上のような各事実から考えれば、「賃金の考え方」の発表は、原告銀行の立案企画に係る人事方針の解説の一環としてなされたものであつて、原告銀行の従組運営に対する支配介入の意図でなされたものでないことを窺うに足る。そればかりでなく、前掲乙第六六号証、乙第二六七ないし第二七二号証の各記載によれば、前記行報旬刊および人事部ニユースに掲載してなされた人事方針の解説中には、原告銀行において右人事方針(「賃金の考え方」を含む)に反対もしくは批判的立場に立つ従業員に対し不利益な処遇をもつて望むが如き意向のあることを暗示したと窺わせるような記載は全く存しないことが認められる。もつとも、前掲甲第二号証の記載によれば、原告銀行と従組間の労働協約においては、従業員の給与基準その他の労働条件に関する基本的事項は労使双方の委員をもつて構成する経営協議会の附議事項と定められていることが明らかであるけれども(労働協約第三七条、第四〇条第二号、第四三条)、右は従業員の給与基準その他の労働条件を現実に改訂すべき場合に際しての手続を定めたものであつて、従業員の給与基準その他の労働条件の改訂に関する見解ないしは方針の公表までも経営協議会の附議事項となしている趣旨であるとは解することができないし、また前記認定の事実によれば「賃金の考え方」の発表は原告銀行の賃金改訂の申入もしくは提案と認めることはできないから、原告銀行が経営協議会に附議することなく、これを一般従業員に発表したことをもつて労働協約違反もしくは反組合的意図の証左とはなしがたい。したがつて、「賃金の考え方」の発表は不当労働行為たる支配介入に該らないものと認めるのが相当である。

(六)、ところで、労働組合法第七条で禁止の対象となつている使用者の行為に、労働契約当事者たる使用者自身の反組合的行為およびその機関たる者の行為が該当することは勿論であるが、その他使用者の利益を代表し、使用者と同一視される監督的被用者のみならず、職制機構の末端にいる監督的被用者の反組合的行為も、職制機構の一員としての地位におけるまたはその地位を利用しての行為である限り、使用者の支配圏内におけるものとして、これに含まれるものというべく、これら監督的被用者の反組合的行為については、当該行為にでた監督的被用者と使用者との間に意思の連絡疎通があつたと否とに拘わらず、すべて使用者において不当労働行為の責を負うべきものと解するを相当とする。

前示第二(以下同じ)、(五)、3の(4)において認定した「賃金の考え方」の説得行為、(七)、2の(2)、(5)、4の(1)、(2)、5の(1)、(2)において認定した不信任投票説得の各行為が、いずれもその内容からして、原告銀行の利益代表者として非組合員となつている各支店長の従組に対する支配介入行為として、労働組合法第七条第三号に違反することは明らかというのほかない。

前示(五)、3の(2)で認定した安藤次長の「賃金の考え方」説得行為は、前掲乙第一一三号証によれば、右説得当時同人に管理者意識のあつたことが認められるほか、組合活動が厳禁されている営業時間内に公然と行なわれていることおよび「賃金の考え方」の発表について前記説示したところよりすれば、管理監督の職分を有する職制としての地位におけるまたはその地位を利用しての、賃上げ要求に対する支配介入として、不当労働行為に該当すると認めるのを相当とする。また、前示(七)、1の(2)において認定した同人の不信任投票説得行為が同じく監督的被用者としての地位におけるまたはその地位を利用してのものであることは、その説得内容からして認めるに足りるし、同人の右一連の行動よりして、同1の(1)および(3)において認定した不信任投票説得の各行為も右と同様のものと認められるから、いずれも従組の運営に対する支配介入に該るというべきである。

前示(七)、2の(1)、(3)、(4)の各役席組合員による不信任投票説得行為は、同(2)、(5)の各事実と併せ考えれば支店長と一体となつて行なつた監督的被用者としての地位におけるまたはその地位を利用しての不当労働行為であることは否定の余地のないところであり、前示(七)、2の(1)および(3)に認定した各事実を併せ考えれば、前示(五)、3の(3)において認定した山田次長の行つた「賃金の考え方」の説得行為は純然たる組合員としての立場においての行動というよりは監督的被用者の立場に立つての言動と認めるに足るから、支配介入として不当労働行為に該るというべきである。前掲乙第一一〇号証の記載中、右認定の趣旨に反する部分は採用できない。

前示(七)、3の(1)、(2)の各役席組合員による不信任投票説得行為が、その監督的地位におけるまたはその地位を利用しての不当労働行為であることは、いずれもその説得内容に照らせば容易に認められるところである。

前示(七)、6の(1)ないし(3)の三浦次長または内田支店長代理の不信任投票説得行為も、前掲乙第一二三、第一二四号証の各記載によれば、右両名とも、少くとも、右説得行為が職制の行為と受取られる余地のあつたことを認識していたことが認められること、(2)の説得内容を併せ考えれば、いずれも監督的地位におけるまたはその地位を利用しての行為と認め得るから、従組の運営に対する支配介入として不当労働行為に該るといわなければならない。

前示(七)、7の(1)ないし(4)の各役席組合員による不信任投票説得行為も、営業時間中職場内で行なわれたり、仕事の面にも触れたりして説得が行なわれたりしていることおよび前示経緯を併せ考えれば、やはり組合員としての活動の範囲を超えるものがあり、不当労働行為と認めざるをえない。

なお、前示(五)、3の(5)の谷岡代理の行為はそれをもつて不当労働行為と認めるに足りない。

原告は、前示支店長らの不当労働行為と目すべき行為につき、不当労働行為の成立を阻却する事由があつた旨主張する。しかし、原告の主張のような事情があるからといつて、前示支店長らの行為の不当労働行為性を否定すべき事由となし得るとは到底解しえないから、原告の右主張は採用するに由ない。

第五、結論

以上判断したとおり、原告銀行の行つた「賃金の考え方」の発表は不当労働行為を構成しないけれども、原告銀行の監督的被用者である支店長および役席者による「賃金の考え方」の説得行為並びに不信任投票の説得行為は、いずれも不当労働行為に該当し、前記説示したところにより、原告銀行はこれら監督的被用者の行為につき不当労働行為の責に任ずべきである。しかして、労働組合において組合員の意思を問う選挙もしくは信任投票は、労働組合の民主的運営の基本をなす重要な事柄であるから、前示平岡執行部の信任投票に際して行なわれた不信任投票説得行為についての原告銀行の責は軽くないといわなければならない。したがつて、前記各不当労働行為に対する救済としては、前示初審命令が認容したとおりの陳謝文の掲示とその履行状況の報告を原告銀行に課するをもつて適切にして妥当な措置であると認めるを相当とする。

しからば、被告委員会が「賃金の考え方」の発表を不当労働行為に該るとした判断は失当ではあるけれども、「賃金の考え方」の説得行為および不信任投票説得行為につき原告銀行に不当労働行為の責ありとして初審命令を維持した再審命令は、結局において正当に帰し、これを取り消すべき事由は存しないといわなければならない。

よつて、原告銀行の本訴請求は理由がないから失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 兼築義春 豊島利夫 神原夏樹)

命令書

(中労委昭和三八年(不再)第二二号 昭和四〇年八月一八日 命令)

再審査申立人 株式会社大分銀行

再審査被申立人 大分銀行従業員組合

主文

本件再審査申立を棄却する。

理由

第一、当委員会の認定した事実

1 当事者等

(1) 再審査申立人、株式会社大分銀行(以下「銀行」という。)は、肩書地に本店をおき、主として大分県下に支店をおいて金融業を営み、その従業員数は、約一、三〇〇名である。

(2) (イ) 再審査被申立人大分銀行従業員組合(以下「組合」という。)は、銀行従業員をもつて、昭和二一年六月に結成され、全国地方銀行従業員組合連合会(以下「地銀連」という。)ならびに大分県労働組合評議会(以下「県労評」という。)に加盟し、本件初審申立当時の組合員数は約一、一〇〇名であつたが、昭和三九年一二月末日では一一二名である。

(ロ) 組合は、各支店毎に分会をおき、九地区に支部をおいている。

(ハ) しかして、組合規約第三条但し書によれば、銀行の部長、部次長、課長、支店長、人事課長代理、秘書課長代理及び臨時労務行員は組合員の範囲から除かれている。

2 平岡執行部成立までの労使関係

(1) 銀行には、従来役席者(役付以上)の団体として、例えば大分地区では研睦会、別府地区では七色会と称する会があり、親睦を旨とし、年一、二回会合を開く外、慶弔金を贈ること等が慣しであつた。これらの会は、会則をもつ団体という程のものではなかつた。なお、後記平岡重夫、広瀬健二も、それらの会員であつた。

(2) 一方、組合執行部と元組合三役経験者で構成する清風会が、昭和二三ないし二四年頃誕生し、年一回親睦の例会を開くことが常であつた。昭和三七年当時会員には、部長、支店長等の役職者も含れていた。

(3) 昭和三五年六月、組合(執行委員長は中尾与三郎)が、銀行とカツターシヤツの現物支給問題について団体交渉中、銀行は一方的に現物支給に代わる現金支給を行員に通知し、組合から組合無視であると抗議され、陳謝している。

(4) 同年七月某日(日曜日)、組合員一〇数名が県労評の要請により三井三池集会に参加したことについて、次長、課長が参加者に注意したことから、組合は、抗議を行ない、銀行は、今後自戒する旨の陳謝文を手交している。

(5) 昭和三七年四月、組合は、一人平均五、〇〇〇円の賃金要求を行ない、四月一五日スト権を確立した。この要求は地銀連傘下の他組合に比べ約一カ月遅れていた。

(6) 同月二三日、銀行は、営業時間中の組合活動については、中央執行委員と雖ども厳禁する旨各支店長あて通達している。

(7) 組合は、同月二六日、二七日に時限ストを行ない、同月二八日(株主総会当日)にも、時限ストを予定していたが、組合のスト中止指令によりストは行なわれなかつた。これと前後して大分等三地区の役席組合員からスト中止の要望書が組合へ出され、このことについては、統制違反の声が起り、戸畑支店の役席者二名は、同店の職場会議で陳謝している。この争議は結局一人平均三、五〇〇円で解決した。

3 平岡執行部の成立と役席会の発足

(1) 昭和三七年八月、組合は、従来の組合役員改選期二月一日が、賃金要求期に当り不利であるとの理由で八月一日に改めた。なお、同年度の新執行部に限り、一〇月一日から発足することとなつた。

(2) 昭和三七年八月三〇日組合役員の改選にあたり中央執行委員長には、前執行部と元組合三役によりなる組合顧問団の推薦により、戸畑支店次長の平岡重夫が立候補した。平岡ほか六名の執行委員は信任投票の結果いずれも約九〇%以上の信任を得、第一九期組合執行部(以下「執行部」という。)が成立した。なお、平岡は、病気入院のため、その間副委員長広瀬健二が委員長の職務を代行した。

(3) 昭和三七年九月二一日に開かれた研睦会では、会を解散し従来の運営から相互研鑚に改めることが提案された。その結果新らしい会の準備委員世話人千原名で、同月二八日「役席者各位」あて、「黎明会発足についての御案内」が出された。同年一〇月五日黎明会が発足し、会則を定めたが、その第三条には「本部並に本店営業部及び市内支店の役席者(支店次長、代理)を以て構成する。」とあり、非組合員である人事秘書両課長代理を含め、本店だけで四〇数名、大分市内支店を合せ約六〇名が加入し、役員として会長には前記千原奈良一、副会長に原敬、松本忠久が選ばれた。

なお、当時は、係長制が実施されていなかつたため、係長は会の構成員でなかつた。

(4) 広瀬副委員長は、加入について、黎明会準備委員と話合つたが、「平岡さん、広瀬さんは現在組合の専従であるから、専従をやめて職場に復帰したら加入していただく。」といわれ、加入できなかつた。

(5) 黎明会は、その結成を、黎明会ニユースで全店に通知した。そのことについて広瀬副委員長は千原会長と話し合い、その結果、「〈1〉会は組合問題を討議決定することはしない。〈2〉会員は、組合原則を十分守る。」等が確認されたので、これを組合速報で組合員に周知させた。

なお、同会は、結成後翌年四月までの間少くとも一〇回の会合が開かれているが、後記組合分裂以後の会合は約五回に過ぎないのである。

(6) 黎明会が結成されてから、概ね組合支部所在の各地区に同会と略々同じ会則をもつ役席会が続生し、それぞれ、鶴泉会、県北会、鴻城会等と称している。

(7) 役席会の会員数は全店で約二八〇名(初審申立時)で、入会資格を有する役席者のうち未加入者は二一名、そのうち一六名は、組合役員又は元組合役員であつた。

(8) 一方、組合は、九月二三日、二四日、第一回代議員会を開き「先づはたらこう」との見出しの運動方針を満場一致で可決した。

(9) 同年一一月二日、午後六時三〇分ごろから、黎明会会長千原が幹事となり、別府市田乃浦南明荘に各地区役席会の代表者ら約三〇名が集まり、黎明会副会長松本が議長となり、役席会の運営について討議した。佐伯支店次長堀端実、竹田支店次長安達泉久、鶴崎支店次長川原垣某、臼杵支店次長大谷謙二、らから約二時間にわたり、「会の目的を、組合対策とすべきである。」「組合は自主性がない、地銀連を脱退すべきである。」「現在の執行部がある限り銀行の業績発展はありえない。」等の発言があつたが、結論としては、「会はあくまでも役席者相互の研鑚を目的とし、これをはずれた運営をしない」ということに決定された。

なお、銀行人事部長神宮清は始めて役席者の会合に招待され、当日の会合に出席したが、発言はしていない。

また、人事課長野上尚、人事課長代理河越巌は討議終了後出席し、夕食をともにしている。

(10) 杵築支店代理三井孟は、役席会未加入であつたが、同日、同支店長から、「千原君が君に話したいといつている。」と言われ、前記会議に出席した。その後、同店次長平川某から、「鴻城会に入らないか、但し、組合運動をやらないという一札をかいてくれ。」という意味のことを言われ、「組合対策というのでは南明荘会議の話と違う。」といつて入会しなかつたが、結局、同年一二月初めごろ入会している。その後鴻城会は、昭和三八年三月末までに、五、六回開かれているが、同人には通知がなかつた。

(11) 同年一一月、清風会会員古長一示(現人事部長)は清風会世話人広瀬(副委員長)あて、同会脱退届を提出した。その後昭和三八年一月二九日から、同月三一日にかけ、日田支店代理山田昌治ほか一二名が、それぞれ同会に脱退届を提出した。

(12) 昭和三七年一二月五日、銀行は、新たに係長制度を実施した。この結果、組合の中央委員、代議員中の役席者数は急増したほか、係長も役席会に加入したので役席会員数も著しく増加した。

なお、銀行の業務組織には、「係長を置くことがある」と規定されていたが、係長制度の実施について、銀行と組合との間で紛争があつたため、それまでは実施されていなかつたものである。

4 平岡執行部の三八年賃上げ要求案とこれをめぐる代議員会の働き

(1) 昭和三七年一二月一三日、組合は、第三回中央委員会を開き、「春闘賃上げ予備討議資料」に基づいて討議を行ない、五、〇〇〇円を目標に大巾賃上げ闘争を行なうことを確認した。この運動方針の推進については、「共闘であるからといつて画一的な闘いを組むということは全く大きな誤りである」と記載されている。

(2) 昭和三八年一月一二日、一三日、組合は、第三回代議員会(青婦部員も含めた拡大代議員会兼組合学校)を開き、前記中央委員会の方向を確認した。

(3) 組合は、前記方向を徹底させるため、同月二〇日各支部別に組合学校を開いたが、「要求五、〇〇〇円は多い。」という声は全くきかれなかつた。

(4) 同月二四日に至り突如として本店で、預金課、貸付課合同の職場会議が開かれ、「要求額は、五、〇〇〇円は無理だ。二、五〇〇円から三、〇〇〇円迄、銀行経営が一転期を画し、従業員の福祉厚生等を打出している時、われわれはこれを信頼しよう」との意見が出され、それが会議を支配した。翌二五日、本店非現業職場会議がもたれ、前記職場会議同様「銀行を信頼しろ」「ストは反対だ」の意見が出された。両会議の発言者は、千原、小野一英(渉外課長代理)高村昭輝(予金課長代理)等黎明会員が主であつた。大分支部は、両日の状況を記載した大分支部ニユース号外を各支部あて殆どの組合員にわたるように配付したが、労務行員には配付されなかつた。

(5) 同月二九日、組合は、第四回代議員会を開いたが、大多数の分会が「要求額は二、五〇〇円から三、〇〇〇円までとする。」の意見を表明し、結局、五、〇〇〇円目標を破棄し、要求額は三、〇〇〇円を絶対にでないことと決議された。

(6) 執行部は、前記代議員会の決定に従い、二、九九五円の要求案を作成し、昭和三八年二月五日から全店オルグを開始した。

(7) 上記要求案は、地銀連傘下九州地区の組合の中では最も低く、多数の他単組の要求額は、地銀連共闘の線で、五、〇〇〇円前後であつた。

5 平岡、渡辺会談

(1) 昭和三八年一月二〇日ごろ、平岡委員長は、組合学校の帰途、富士見通支店行員阿部智次郎に「このような情勢ではやめたくなつた。」ともらし、同年二月二日、別府市滝元旅館で、平岡、阿部らは、組合をめぐる情勢を検討した。

(2) 同年二月八日夜、阿部が、研修課長代理渡辺彬の自宅を訪ねた際、渡辺は、「平岡に会いたいからあつせんしてくれ。」と頼み、同人は了承した。

(3) 翌九日午前一〇時頃、渡辺は、電話で、重ねて会談の実現を促したところ、阿部は、「今日午後九時に私宅に来てくれ。」と返答した。阿部は、平岡にも自宅に来てくれと話したが、渡辺のことにはふれなかつた。

(4) 同日夜、同窓会に出席していた平岡は、当時日田支店次長の中尾与三郎に別の旅館に呼ばれ、同店山田代理(昭和三八年一月二九日清風会脱退)も同席の上、「退いたら」と、いわれたが気にとめず、九時三〇分ごろ、阿部宅に赴いたところ、先着していた渡辺から、「ここだけの話だが」の前置で、「やめてくれないか」と、いわれた。平岡が返答せぬままに後任者の名などがあげられたが、結論はでなかつた。

(5) 同月一二日午前一〇時ごろ勤務中の阿部は、人事課長、富士見通支店長を通じて、貸付課長代理小野喜克に呼び出され、タクシー(銀行払い)で渡辺宅に赴いたところ、小野喜克と小野一英とが先着しており、阿部は、両名に問はれるままに前記、平岡、渡辺会議を説明した。この時、平岡が訪れ、渡辺に「執行部にはかつた結果、前夜の話はお断りする。情宣で流すから了承してほしい。」といい立ち去つた。阿部は、その後本店にゆき、人事課長、人事部長に会い、経過を報告し、午後三時ごろ職場に帰つている。

6 「賃金の考え方」と、これをめぐる役席者の言動

(1) 昭和三八年二月一三日、銀行は、人事部ニユースで、「賃金の考え方」と題する人事方針を発表し、全行員に配布した。それには「当行における現行給与体系を人事方針に則り下記のように改めたいと考える。」との前文のもとに、年令別最低賃金表を附した具体的改訂案が示されていた。

(2) 翌一四日午後四時ごろ、平岡は、人事課長および人事課長代理に会い、前項について説明を求めたところ、「〈1〉資金量は一人平均三、〇〇〇円以上になるだろう。〈2〉この考え方を実施すれば、四月一日からになるだろう。」といわれている。

(3) 同日、大分支部は、本店現業合同職場大会を、翌一五日には本店非現業合同職場大会を開き、「賃金の考え方」を討議し、その状況を、同支部ニユース号外で、「すばらしい体系だ、この際労使の信頼関係を確立しよう」などの見出しで配布した。

(4) 同月一四日、黎明会、北誠会は、「私共管理者は上司の考え方本部の方針を部下が正しく理解出来るように伝える立場にある」との司会の言葉で、「賃金の考え方」について討議し、賛意を表する旨の議事内容を、黎明会研究発表として配布した。黎明会に続き、各役席会、職場で、「賃金の考え方」の研究説明が一斉に行なわれた。この為職場に混乱が起きた。

(5) 同月一八日ごろから三月初めにかけ、門司支店次長安藤憲治は、女子行員を個別に呼び、具体的昇給予想額をあげ「賃金の考え方」をのむように説得を行なつている。なお、同人は、そのことを執行部に調査され、「今後は個人説得は行わない」旨、言明している。

(6) 同月二一日、組合は、「賃金の考え方」を配布したことは労働組合法第七条第三号に該当する行為である、また、これを職制を通じ、組合員に働きかけることは不当労働行為になる、との抗議文を銀行に提出するとともに、同日の団体交渉において、労働協約の精神に反すると抗議したが、銀行は、これはあくまで単なる考え方であり、提案ではないと答えた。

(7) 同年三月四日、組合速報六七号は、「執行部の要請」と題し、人事部の考え方を職制が部下に説明し納得させることは当然だと考えるかも知れないが、組合の活動に影響を及ぼすことは明かであり、かつ、たとえば、組合員が職制の立場で上からの指示で動いていると見られる場合は明らかに不当労働行為を構成するので、組合員は、組合の場に職制の立場を持込まないし、持込ませないよう要請する旨を発表した。

(8) 同日、玖珠支店次長山田陽二郎は、同店行員石黒雅晴に「銀行からこのように賃金の考え方というものが示されて、行員自身も目覚めて経営が大きく変ろうとしているところだから、今迄の組合のあり方を考えなおす必要がある。要求は出す必要はない。」といつている。同人は、同じころ、他の行員にも、個別に同趣旨の説明を行なつている。

(9) 同月五日、黎明会は、前記組合速報六七号に対し、抗議文を執行部あて提出するとともに、「われわれ役席は上からの指示で動いているのではなく、組合員の立場で賃金に対する考え方を皆によりよく理解してもらう努力をしているのであつて、不当労働行為については、従来の判例の趣旨からすれば、『使用者の発言に不利益取扱の暗示を含み、あるいは利益の喪失を暗示するが如き場合に』支配介入を認めているので、人事部ニユースの考え方の説明はこれに該当しないと思われるし、いわんや使用者ではない組合員(役席)が説明することは支配介入にならないと解せられます。

以上の見解に従い、……今後も自信をもつて発言し行動します」との声明文を発表している。

なお、各役席会も、黎明会と同様の趣旨の抗議文を、同日から同月八日にかけて執行部に提出している。

(10) 同月六日、山田支店次長は、玖珠分会の職場集会に出席した広瀬副委員長に「私は、夜間家庭訪問するようなみみつちいことはしない。」と言明している。

(11) 同月七日、佐伯支店代理谷岡勝彦は、同店行員笠村伸一に「組合は共産党がかつている。銀行の預金が伸びないのは組合のせいだ。もし銀行を信頼しない場合は自分たちは第二組合を作る。」といつている。

(12) 同月一一日ごろ、執行委員木許哲郎が、玖珠分会に赴いたところ、山田支店次長から「執行部は部屋に入つてくれるな。」といわれたが、職場の投票により入室している。同日、同分会は、多数決で賃金要求を行なうことを決定した。

(13) 同月一二日ごろ、安心院支店長末広武男は、同店行員花木博之を自宅に呼び、「今の執行部は冷酷だ。」「不当労働行為なんか全県的にやれば恐れることはない。」といつている。

7 第五回代議員会と平岡執行部退陣動議

(1) 昭和三八年三月一三日、高村大分支部長(黎明会員)ほか大分支部代議員約十数名が会合し、翌日の代議員会に、執行部退陣動議を出すこと、及び議長には須藤総を推すこと等を協議した。このことは秘密にされ、職場集会にかけられていない。

(2) 同月一四日、午前六時三〇分ごろ、中尾支店次長は、野上支店長上田学とともに、平岡委員長を自宅に訪ね、「執行部を一度解体したらどうか」とすゝめたが、平岡は肯じなかつた。

(3) 同日、組合は、第五回代議員会を開催した。議長は執行部推薦の従来の慣例を破り、須藤と、県南支部の野中一敏が、それぞれ支部推薦で選ばれた。先づ来賓挨拶拒否動議が採決され、県労評、地銀連からの参会者が退場させられた。このようなことも、従来例がなかつたことであつた。

ついで大会は、二、九九五円の賃金要求案を廃案にすること、賃金要求を行なわず、銀行の提案をまつこと、銀行に提案を出すようにと申し入れを行なわないことを、いずれも採決により決定した。その後高村から、「執行部は、原則的な運動方針を固執するあまり、組合員の考えと基調の相違を生じ、対立感を深めている。」との趣旨の退陣動議が出され、「執行部は代議員会等の決定に違反したことはない。」「執行部は人格的に立派だが、“馬とニンジン”的指導性では事態の収拾は困難である。」「銀行に信頼されない執行部にはついてはいけない。」などの意見が交されたが、結局、同日夜一二時に至り、採決の結果、執行部退陣動議が可決された。なお、組合規約では、上記提案理由は、役員罷免理由に該当していない。

(4) 翌一五日、執行部は、全員投票で信任されている以上、進退は全員の信任投票によるべきである、との立場を堅持し、同月二〇日、全員の信任投票を行なうこととなつた。

(5) 同日、中尾支店次長は、別府市旅館松村荘に平岡委員長を呼び、組合員帆足正同席の上、再び退陣をすゝめている。

(6) 執行部は、同月一六日、中央選挙管理委員会を設定した。

8 執行部信任投票をめぐる役席者の言動

(1) 昭和三八年三月一五日昼食時、安藤支店次長は、門司支店女子行員四、五名を食堂に誘い「この店ではあまり混雑を起さずに互に割り切つていこう。」と執行部不信任について説得している。

(2) 同日、午後一一時三〇分ごろ、山田支店次長は、玖珠支店女子行員中山瑠美子宅を同店代理清水某とともに訪ね、「代議員会で執行部は不信任を受けた。銀行を信頼するように。」との説得を一時間余にわたり行なつている。

(3) 同月一六日、午前一一時ごろ、安藤支店次長は、門司支店行員賀来熙を同支店応接室によび入れ、信任投票について「混乱しなくて収拾するために不信任に同調してくれ」と説得している。

(4) 同日、午後七時三〇分ごろ、堀端支店次長は、笠村を、佐伯市内旅館福美荘に呼び、「店の統一をとる上からみんな一緒に不信任をしてもらえばよい。われわれの考えをわかつてもらえないなら、銀行に職を奉じている間徹底的に闘う。君もここは、長いから今度変えようと思う。」といつている。なお、堀端は、同地区役席会南風会の会長であつた。

(5) 同日夜、八時ごろ、宇島支店長河野喜通は、同店代理浦上某ほかと自宅で執行部問題を話し合い、さらに同店行員で代議員の神志名章夫を呼び、「これくらいの店で人の和がこわれたら仕事ができないから、意思統一をして進んでくれ、不信任の名簿を出さねばならないから。」と、翌午前〇時三〇分ごろまで説得している。

(6) 同月一七日、河野支店長は、自宅に同店行員河野光男を呼び、「信任か不信任か態度を聞きたい。」と、説いている。なお、その場には、浦上、南某の宇島支店代理が同席していた。

(7) 同日、本店為替課行員朝久野照子は、同課、課長代理菊川某、同係長小林某の来訪を受け、「不信任に為替課がまとまつたから、一人でも信任がでると村八分になる」といわれている。

(8) 同日、安藤支店次長は、門司支店行員柳田某宅を訪ね、不信任投票をするように説得し、さらに久恒某宅を訪ねたが不在の為会つていない。

(9) 同日、午後五時三〇分ごろ、佐伯支店係長松本吉平は、同店行員国友和夫宅に同店行員源修三を呼び、「執行部を信任すれば組合が割れる。組合を分裂させぬために大局的にわれわれの言つていることを意識してくれ。」といつている。なおこの際松本は、「支店長から、源は捨ててもいいからともいわれたが、私は努力してみますといつてある。」とも述べている。

(10) 同日夜、津久見支店代理内田実は、同店行員大下某、清水某、丹羽某、平田某の自宅を個別に訪問し、執行部不信任の説得を行なつている。

(11) 同月一八日、午後一二時ごろから翌午前一時三〇分にかけ、内田代理は女子行員三宅某宅を訪ね、執行部不信任を説いている。

(12) 同日、中央選管は、告示をもつて、選挙方法、開票方法等を全組合員、全代議員、選挙管理委員に通知した。告示には「各分会集計は省略され、本部一括開票となるので、個人の投票の秘密は保たれ、完全に管理されます。」「中央選管より出される諸告示は必ず分会組合員全員の目につき易き場所に掲示すること」の文面が記載されており、中央選管はこの告示を各分会あて書留速達便で発送している。同日午後、佐伯分会選挙管理委員は、中央選管あて、開票方法の改正について抗議電報を発している。

(13) 同日夕刻、玖珠支店代理後藤光男は、同店行員元松サカエ宅を訪ね、同人に執行部不信任の説得を行なつている。

(14) 同日、午後九時ごろ、津久見支店次長三浦賢二は、同店行員高橋昭一を自宅に招いたが、同人が同店行員藤沢武宅にいることを知り、内田代理と同道藤沢宅を訪ね、高橋に対し、約二時間にわたり、内田ともども「現執行部は銀行の方針にもとるので、簡単にいうと不信任しよう。これはわれわれの務めであるから個別的に説得している。」といつている。

(15) 同日、同じころ、本店営繕課長代理福光泰雄は、係長松本某とともに、女子行員河野悦子宅を訪ね、不信任投票の説得を行ない、さらに同夜銀行のスクーターを使用し、行員宮地某、賀来某宅を個別訪問している。

(16) 同日、末広安心院支店長は、午後九時ごろ、安心院支店女子行員賀来某宅を、午後一一時ごろ同店行員山上某宅を、それぞれ訪ね不信任の説得を行なつている。

(17) 同日午後一二時ごろ、玖珠支店長白石次男は、後藤光男代理とともに中山瑠美子宅を訪ね、同人に「残るのはあなた一人だから不信任せよ」と一時間余にわたり説得している。

(18) 同日ごろ、中央選管の告示を知つた高村は、佐伯支店赤嶺忠勝ら各支部幹部に電話し、「選挙方法が変つた。各自で判断してやつてくれ。」といつている。

(19) 同月一九日午前一一時三〇分ごろ、福光課長代理は、課員椎原房勝に対し、「不信任要望書に賛同していただきたい。」といつたが拒否されている。さらに、同日午後〇時過ぎ、内田係長は椎原を庶務課倉庫に導き、不信任の説得を行なつている。

(20) 同日、午後、本店庶務課長代理後藤安弘は、本店重役食堂に、本店女子行員を個別に呼び不信任の説得を行なつていたが、午後三時ごろ、林喜代子を説得中、福光課長代理も来合わせ、ともに林を説得している。

(21) 同日、午後二時ごろ、山田支店次長は、後藤光男代理の社宅に、玖珠支店行員石黒雅晴を呼び、「次長と個人の両方の立場で話しするが、話し合いでは自分の立場がなくなる。不信任が多いことは組織を守ることになる。執行部を信任する人は今後敵対視する。」といい、続いて五時三〇分ごろ同店女子行員一木美枝子を同場所に呼び、不信任の説得を約一時間にわたり行なつている。

(22) 同日、末広安心院支店長は、営業時間中に、安心院支店行員清原某、甲斐某を自宅に呼び、不信任の説得を行なつている。

(23) 同日午後七時ごろ後藤光男代理は、玖珠支店前から、自己の運転する乗用車キヤロルに同店行員中山瑠美子を乗せ、中山宅前で駐車し、車中で約一時間不信任の説得を行なつている。

(24) 同日午後一一時ごろ、白石玖珠支店長は、後藤光男代理を同道、石黒を下宿に訪ね、先に同場所にきていた同店分会代議員野上某とともに、「反対するならあなただけ、はみだしますよ」といい、さらに「私は頭取から支店をあづかつている。組合からでない。」ともいつている。

(25) 佐伯支店行員鳥越正春は、信任投票の立会人であつたが、同月二〇日投票前、同店の組合員を集め、「今度の投票では、一応本部で開票するが各支店別に開票するという情報がはいつている。」と述べている。なお、前日の同店職場会議で、同店選出の岡本某は、中央選管告示の趣旨を情報として説明している。また、同店では、中央選管通知は告示されなかつた。

(26) 同日、投票前、三浦支店次長は津久見支店営業室で、同店全組合員に、不信任投票を行なえと受けとれるような発言をしている。

(27) 同月二二日、組合は、大分県地方労働委員会に本件初審申立を行なつた。

(28) 同月二三日、中央選管は、有効投票総数一、一一八票、信任する四五三票、信任しない六三四票、白票三一票と選挙結果を発表した。なお、組合選挙規定では、投票数の三分の一の信任票があれば、不信任が成立しないことになつている。

(29) 同年四月三日、執行部は、組合速報で、「執行部は不当労働行為のない真の公明選挙なら率直に従う」と見解を発表した。

9 組合の分裂

(1) 昭和三八年四月一二日、午後二時、高村、須藤、千原ら代議員五六名は、執行部が退陣せず、本件初審申立を行なつたことを不満とし、執行部と異なる新しい運動を展開する旨宣言した。

同日、大分市内鴨旅館に、渡辺課長代理、小野喜克課長代理を中心に前記代議員グループが集会中であることを知つた阿部が、説得を試みようとしたところ、高村から「不法侵入だ」といわれ入室を拒否されている。

(2) 同月一五日、同場所において、高村、須藤らが中心になり、大分銀行労働組合(以下「新労」という。)結成総会を開き、古手川幸男が新労の執行委員長に選ばれ、ここに組合は分裂するに至つた。昭和三九年一二月末日現在新労組合員は一、一九六名である。

(3) 信任投票後、菊川課長代理と小林係長は、本店為替課女子行員七人に、執行部退陣要請書、組合脱退届、新労加入届の用紙を配布している。

(4) 新労は、結成後、給与体係変更について銀行提案を一日も早くするよう銀行に申し入れを行ない、同年四月二二日、銀行は、組合、新労双方に対して、給与体係改訂についての提案を行なつた。これに対し、新労執行部は、「受け入れられない点は受け入れられるように変えてゆく」との態度を表明した。

以上の事実が認められる。

第二、当委員会の判断

銀行は、本件初審命令は事実を誤認し、判断を誤つたものであるとし、

〈1〉 各地区の役席会は従来の役席会が改組されたもので、その設立ならびに運営は銀行の意思とは全く関係がない。役席組合員の連名または役席会会長名でなされた組合執行部に対する抗議、批判は、役席会の目的の範囲外のことがらであるとしても、銀行の意思とは全く無関係であり、役席者が組合員として自主的な組合活動をなし、その執行部を批判することは組合員として自由な権利である。

〈2〉 南明荘会議は組合の組合活動と何らかの関係があつたことが窺われるとした初審判断の推理は、事実に基づかず、また、不合理な判断である。

〈3〉 平岡、渡辺会談は、一組合員と組合委員長との会談であり、銀行の意思とは無関係である。

〈4〉 「賃金の考え方」は組合に対する提案とみなさるべきものでなく、銀行の人事方針に則つた賃金のあり方の公表である。従つて、組合の自主的な賃上げ要求を阻止するものでなく、組合に対する趣旨説明がその発表の前後いずれになされても組合運営に対する介入行為と断じ難い。しかも「重要な点について具体性を欠く」と解するのは失当である。初審で「賃金の考え方」公表の目的とその内容が誤認され、ひいて「組合の団結を弱めて、その運営を支配しようと企てたものである」と判断されていることは全くの誤りである。

〈5〉 また、役席者が行員に対し、「賃金の考え方」に同調せよとの趣旨の説得をしたとしても、それはあくまで組合員としての組合に関する意思表示もしくは話し合いとみるべきで、職制の乱用、部下行員に威圧を加えたと判断すべきではない。

〈6〉 第5回代議員会における賃上げ要求についての決定は、「平岡執行部の組合要求にはついていけない。執行部の指導方針に反対する。」という趣旨の決定とみるべく、一般組合員の意思を反映した正規の機関決定である。また、初審は、執行部退陣要求の決議について、代議員会にはその権能がないなどと不当な判断を下している。

〈7〉 第五回代議員会後、執行部派と反執行部派との間の激しい選挙活動の中で、役席者の一部が執行部不信任の説得を行なつたとしても、それは自然であり、また、一部の支店長の言動も職場の平和を願うあまりなされたもので他意はない。しかして、いずれも銀行の意思とは無関係である。

〈8〉 組合の分裂については、平岡執行部が不信任されても退陣しなかつたので、不信任派の代議員を中心として新労が結成されたもので、組合内部の問題であり、銀行の関知するところではない。

以上要するに、本件は組合の内部抗争により組合分裂にいたつたもので、明らかに組合の自壊作用であり、銀行の意思とは何ら関係のないことである。と主張する。

一方、組合は、銀行の多年の反組合対策が平岡執行部成立を機に表面化し、結実したもので、初審判断のとおり、本件は明らかな不当労働行為であると主張する。

一 平岡執行部成立から第四回代議員会までについて

(1) 平岡が、中央執行委員長に推され、平岡執行部が成立した事情は、前記第一の3の(2)認定のとおりであり、信任投票で九〇%以上の信任を受けており、当時、組合内部に平岡およびその執行部に対する不信の空気が顕著であつたとは認められない。しかも、平岡は、当時入院中で一一月まで副委員長が職務を代行していた。

(2) ところで前記第一の3の(3)ないし(7)認定のとおり、役席者の親睦団体である研睦会が解散し、平岡執行部発足直後の昭和三七年一〇月五日、黎明会が組織され、その会報が全店に配付されるや、たちまち各地に略々同様な会則をもつ役席会が設立されているのであるが、

〈1〉 役席会加入は無条件でなく、親睦団体当時会員であつた平岡、広瀬のように組合専従であるからとの理由で入会を拒否されたものや、三井孟のように条件付で入会を勧誘されたものもいること。

〈2〉 役席会の組織は、概ね組合支部所在地にあり、結成当時の会員数は、組合員数の約四分の一に相当すること。

〈3〉 昭和三七年一二月五日の係長制度の実施により、男子行員の過半数が役席者となつて役席会に加入したので、組合の代議員などには役席会員が多くなつたこと。

〈4〉 役席会は、相互研鑚を目的とし、広瀬、千原会談の結果、組合問題は討議決定しないとされていたにもかかわらず、その後反執行部活動に力を注いでいること。

等の諸事実からみて、役席会は、従来の親睦団体が相互研鑚を目的として再組織されたものと認めることができず、結果的には組合の中に組合支部に対応して支部別に役席者の組織が結成されたことになつているのである。

(3) 南明荘会議は、会の運営の統一をはかるための各地区役席会の幹部会議ともいうべきものであるが、

〈1〉 役席会は、組合問題を討議決定しないとされていたにもかかわらず、先づ組合対策が活発に討議されていること。

〈2〉 招待されて会合に出席していた人事部長は、役席会の目的に反する組合対策の討議は、不適当とみられるにもかかわらず、これを聞きながら、何ら注意もせず、直ちに退席もしていないこと。

〈3〉 役席会は、組合対策を目的とするものではないと集約されてはいるものの、既に組合対策の討議がかなりの時間をかけてなされた後のことであること。

〈4〉 人事課長らが人事部長に替つて会食に出席していること。

等の諸事実からみて、南明荘会議における組合対策の発言は、人事部長を意識した迎合的なものであつて、しかも役席者の言動が、対組合強硬論に沿い展開されている事実とを併せ考えると、南明荘会議に人事部長が出席し、その前で組合対策が討議されているのであるから、銀行の労務責任者としては、組合の内部問題について本来中立的であるべき使用者の立場を忘れたものであつて、単に軽率であつたではすまされない責任がある。

(4) 組合の、第三回代議員会における五、〇〇〇円目標の大巾賃上げの確認が、第四回代議員会で、要求は三、〇〇〇円を絶対にでてはならないと決定された経緯については前記第一の4の(1)ないし(5)認定のとおりであるが、

〈1〉 その間、賃上げ要求の目標を変更すべき特段の事情も認められないこと。

〈2〉 黎明会員が指導的役割を果していること。

からみて、代議員会を支配した役席者が執行部に対し、地銀連一辺倒反対、銀行を信頼せよ等と銀行に対する迎合的態度を明瞭にし第一歩であると認めざるをえないのである。

一方、この決定に従つて平岡執行部が作成した二、九九五円の賃上げ案は、地銀連傘下の他組合の要求額と比較して甚だしく低いものであつたのである。

(5) その頃、前記第一の3の(2)認定のとおり、多数の清風会員が同会を脱退して、清風会は事実上解散しているのであるが、

〈1〉 脱退届は、第四回代議員会の直後に集中していること。

〈2〉 清風会には、平岡を執行委員長に推薦した組合顧問団も包含されており、清風会は、執行部と元組合役員(銀行の部長、支店長などの要職者もいる)の親睦団体であつたこと。

〈3〉 係長制度の実施により、役席会が拡充強化され、役席者による代議員会支配が実現した以上、平岡執行部と元組合役員を繋ぐよすがであつた清風会は無意味な存在となつたこと。

〈4〉 その後、屡々、上記脱退者は、平岡に組合役職から引退するように勧奨していること。

等の諸事情が認められ、この清風会の事実上の解散により、執行部は孤立化するに至つているのである。

(6) 前記第一の5認定の平岡、渡辺会談は、この直後頃行われているのであるが、

〈1〉 阿部は、人事部長、人事課長に事の顛末を報告していること。

〈2〉 銀行は、阿部の行動に社用扱いをしていること。

〈3〉 勤務時間中の組合活動が厳禁されていたにもかかわらず、小野らの行動を黙認し、これに便宜を与えていること。

等の諸事実からみて、平岡、渡辺会談に銀行が相当な関心をもつていたことが認められるのである。

二 「賃金の考え方」とこれをめぐる役席者の言動ならびに第五回代議員会について

(1) 「賃金の考え方」は前記第一の6の(1)認定のとおり、その実施の時期などは別として、かなりの具体的内容をもつていたものであるが、

〈1〉 銀行は、組合執行部が賃上げ二、九九五円案を作成し、全店オルグ中に賃金の考え方を発表していること。

〈2〉 源資的には、上記執行部案を上廻る三、〇〇〇円以上の源資を要するものであつたこと。

〈3〉 銀行は、全行員に洩れなく配布しているにもかかわらず、事前に、組合との間には労働協約に定める経営協議会(第五章第四〇条)も開催しておらず、組合から質問を受け始めて、源資とか実施時期などにつき話していること。

等の諸事情が認められるのである。従つて、銀行が「賃金の考え方」を配布したについては、単に人事方針に関する従来の研究の成果を発表したものに過ぎないとの銀行の説明にもかかわらず、上記の如き「賃金の考え方」の内容、発表の時期、方法からみて、銀行が他に何らかの意図をもつてなしたものと認めざるをえないのである。

(2) しかも、「賃金の考え方」が発表されるや、直ちに黎明会を始めとする役席会が「賃金の考え方」支持の説得活動を組合員に対しているのであるが、

〈1〉 前記第一の6の(4)認定のとおり、役席組合員は、自ら管理者的立場にあることを意識し、経営方針の変更に際し、組合のあり方を修正する要ありとして説得活動を行つていたこと。

〈2〉 前記第一の6の(7)、(9)認定のとおり、組合が組合員たる役席者に慎重な行動を要請したのに対し、各役席会は一斉にこれを反駁し、「上からの指示で動いているのではなく組合員の立場でやつているのであるから不当労働行為にはならない、今後も自信をもつて発言し、行動する」旨を発表していること。

〈3〉 役席会の行動としては、対組合問題には介入しないという広瀬、千原会議の約束ならびに南明荘会議の結論に背反したものであること。

〈4〉 銀行は、かかる役席者の言動を知悉しながら、何らの措置もとつていないこと。

等の諸事情が認められる。従つて、上記役席会及び組合員たる役席者の言動は、組合員としての活動に藉口して、役席者自ら管理者的立場からの行動であることを意識し、「賃金の考え方」を発表した銀行の意を体して、当時賃上げ要求検討中の組合員及び組合のあり方に影響を及ぼすべくなされたものであり、銀行は、これを黙認、利用していたものと認めざるをえず、結果的にみても、銀行が「賃金の考え方」を発表したことは役席者の説得活動と相まつて、後記組合第五回代議員会の結論を左右したことを見逃すことはできない。

(3) しかして、第五回代議員会においては、賃上げ要求について、(イ)賃上げ要求をしないこと、(ロ)銀行からの提案を待つこと、(ハ)銀行が提案することも要求しないこと、を決定し、さらに、平岡執行部退陣要求を決議しているのであるが、

〈1〉 第五回代議員会がもたれるまでの経緯については上記一及び二の(1)、(2)認定のとおりであること。

〈2〉 代議員会開催の前日、高村大分支部長は、本店代議員たる黎明会幹部ら十数名を秘密裡に集め、代議員会の進め方その他について協議しており、代議員会ではこれらの役席者が指導的な役割を果していること。

〈3〉 組合の賃上げ要求についての代議員会の決定内容は、正に銀行一辺倒とも称すべきものであつたこと。

〈4〉 さらに、代議員会では、突如平岡執行部退陣動議が提出され、職場討議の余地も与えず強行採決されて、平岡執行部の退陣を迫つていること。

〈5〉 執行部退陣動議の理由として説明されたところは、銀行が「賃金の考え方」を発表した以後の混乱の責任をとれということであるが、むしろ、混乱の原因は、上記(一)、(二)認定のとおり、銀行及び役席会が作り出した事態であつたと認めざるをえないこと。

等の諸事情が認められるのである。

(4) 従つて、銀行が「賃金の考え方」を発表し、役席会が組合員を説得した効果が第五回代議員会に集約的に現れたものであつて、銀行の諸措置と、これに沿う役席者の諸言動が、結局、賃上げ要求を検討中であつた組合員に動揺を与え、組合の賃上げ要求を制約阻害することとなつたことを否定しえないのである。

三 不信任投票を勧奨ないし強制した役席者らの言動と組合の分裂について

(1) 上記認定の経緯からみても、昭和三八年三月一五日から二〇日に至る間に、平岡執行部信任派と不信任派が、それぞれ組合員に対する説得活動にしのぎを削つたであろうことは想像に難くない。

〈1〉 しかして、不信任派の説得活動としては、前記第一の8に認定したものだけについてみても約二五件に及んでおり、この中には、宇島、玖珠、安心院各支店において、支店長自ら単独で、あるいは、同店役席者と共に、同店行員を支店長の自宅に招致し、あるいは、夜間、それも多くは深夜に行員宅を訪問して不信任投票につき説得、勧奨している事実が六件もあること。

〈2〉 その他役席者の言動に徴しても、銀行の利益代表者と認めざるをえない支店長が組合員である役席者と一体となり、その職責を利用して、組合員たる行員に平岡執行部不信任を説得し、その意思決定を強制しているのである。

〈3〉 従つて、これら支店長及び役席者の言動は、前叙認定の経緯からみて、銀行の意を体し行われたものであることは疑いないし、しかも、銀行は、かかる事態を知悉しながら、これを黙認、放置していたのであるから、銀行も、その効果を期待していたものと認めざるをえないのである。

(2) 組合は、このような支店長及び役席者らの言動は組合運営に対する介入行為であるとして、開票結果をまつことなく本件不当労働行為の救済申立を行なつているのである。

(3) 開票の結果は、果して執行部不信任票が過半数を占めていたが、平岡執行部は、銀行の介入によりなされた投票であること、規約上退任すべき票数に達していないこと等を理由に辞任しなかつた。

そこで、役席会幹部は、前記第一の9認定のとおり新労を結成して、ここに組合は分裂したのであるが、その後、組合勢力は衰退の一途を辿るのみであつた。

(4) 上記(1)(2)(3)認定の経緯からみて、平岡執行部が退陣しないとみるや、銀行の意を体した役席会幹部は遂に組合を分裂させたものと認めざるをえないのである。

(5) 一方、平岡執行部はといえば、賃上げ要求すらできず、信任投票にまで追いこまれ、さらに、組合分裂に至るまで、対銀行との間には殆どなすところなく終始していたのである。

四 本件不当労働行為の成否について

(1) 上記二の(1)認定のとおり、銀行が「賃金の考え方」を発表したことは、その時期、方法からみて組合運営に対する支配介入行為と認めざるをえない。また、上記二の(2)に認定した役席にある組合員の部下行員に対する説得活動ならびに、上記三の(1)に認定した、銀行の利益代表者たる支店長の言動、および支店長と役席にある組合員が一体となつて部下行員に対し説得活動を行つたことは、いずれも、それら行為者が自ら銀行の管理者的立場を意識しての部下行員に対する説得活動であること、しかも銀行は、かかる事態を知悉しながら何らの措置もとらず、これを黙認、利用し、それらの効果をむしろ期待していたのであるから、支店長の言動についてはもとより、役席にある組合員の言動についても、銀行の組合運営に対する支配介入行為として銀行に帰責せらるべきものと認めざるをえない。

(2) 従つて、(イ)平岡執行部成立直後の時期に役席会が再組織され、(ロ)係長制度の実施により役席会が強化され、(ハ)清風会が事実上解散して、組合執行部は孤立し、(ニ)ここで「賃金の考え方」を発表し、役席にある組合員に期待して組合員の動揺を図り、(ホ)かくして、地銀連の賃上げ闘争の線に沿う組合要求は崩され、(ヘ)その責任を執行部に負わせて退陣させようとし、(ト)遂には、組合は分裂し、弱体化しているのであるから、以上の事態の推移は正に、銀行が地銀連の影響下にある組合の弱体化を企図し、この為に役席にある組合員を利用するための、また、利用した一連の措置と認めざるをえなくなるのである。

(3) 以上により、「本件審査の過程で明らかにされた事実の推移をたどつてみると遺憾ながら銀行の意図に基く一連の」支配介入行為であると認定した初審判断に誤りはない。

以上のとおり、本件再審査申立には理由がない。

よつて、労働組合法第二五条、同第二七条、及び労働委員会規則第五五条を適用して主文のとおり命令する。

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